2008年11月7日金曜日

 吾輩は近頃運動を始めた。猫の癖に運動なんて利《き》いた風だと一概に冷罵《れいば》し去る手合《てあい》にちょっと申し聞けるが、そう云《い》う人間だってつい近年までは運動の何者たるを解せずに、食って寝るのを天職のように心得ていたではないか。無事是貴人《ぶじこれきにん》とか称《とな》えて、懐手《ふところで》をして座布団《ざぶとん》から腐れかかった尻を離さざるをもって旦那の名誉と脂下《やにさが》って暮したのは覚えているはずだ。運動をしろの、牛乳を飲めの冷水を浴びろの、海の中へ飛び込めの、夏になったら山の中へ籠《こも》って当分霞を食《くら》えのとくだらぬ注文を連発するようになったのは、西洋から神国へ伝染しした輓近《ばんきん》の病気で、やはりペスト、肺病、神経衰弱の一族と心得ていいくらいだ。もっとも吾輩は去年生れたばかりで、当年とって一歳だから人間がこんな病気に罹《かか》り出した当時の有様は記憶に存しておらん、のみならずその砌《みぎ》りは浮世の風中《かざなか》にふわついておらなかったに相違ないが、猫の一年は人間の十年に懸《か》け合うと云ってもよろしい。吾等の寿命は人間より二倍も三倍も短いに係《かかわ》らず、その短日月の間に猫一疋の発達は十分|仕《つかまつ》るところをもって推論すると、人間の年月と猫の星霜《せいそう》を同じ割合に打算するのははなはだしき誤謬《ごびゅう》である。第一、一歳何ヵ月に足らぬ吾輩がこのくらいの見識を有しているのでも分るだろう。主人の第三女などは数え年で三つだそうだが、智識の発達から云うと、いやはや鈍いものだ。泣く事と、寝小便をする事と、おっぱいを飲む事よりほかに何にも知らない。世を憂い時を憤《いきどお》る吾輩などに較《くら》べると、からたわいのない者だ。それだから吾輩が運動、海水浴、転地療養の歴史を方寸のうちに畳み込んでいたって毫《ごう》も驚くに足りない。これしきの事をもし驚ろく者があったなら、それは人間と云う足の二本足りない野呂間《のろま》に極《きま》っている。人間は昔から野呂間である。であるから近頃に至って漸々《ようよう》運動の功能を吹聴《ふいちょう》したり、海水浴の利益を喋々《ちょうちょう》して大発明のように考えるのである。吾輩などは生れない前からそのくらいな事はちゃんと心得ている。第一海水がなぜ薬になるかと云えばちょっと海岸へ行けばすぐ分る事じゃないか。あんな広い所に魚が何|疋《びき》おるか分らないが、あの魚が一疋も病気をして医者にかかった試《ため》しがない。みんな健全に泳いでいる。病気をすれば、からだが利《き》かなくなる。死ねば必ず浮く。それだから魚の往生をあがる[#「あがる」に傍点]と云って、鳥の薨去《こうきょ》を、落ちる[#「落ちる」に傍点]と唱《とな》え、人間の寂滅《じゃくめつ》をごねる[#「ごねる」に傍点]と号している。洋行をして印度洋を横断した人に君、魚の死ぬところを見た事がありますかと聞いて見るがいい、誰でもいいえと答えるに極っている。それはそう答える訳だ。いくら往復したって一匹も波の上に今|呼吸《いき》を引き取った――呼吸《いき》ではいかん、魚の事だから潮《しお》を引き取ったと云わなければならん――潮を引き取って浮いているのを見た者はないからだ。あの渺々《びょうびょう》たる、あの漫々《まんまん》たる、大海《たいかい》を日となく夜となく続けざまに石炭を焚《た》いて探《さ》がしてあるいても古往|今来《こんらい》一匹も魚が上がっ[#「上がっ」に傍点]ておらんところをもって推論すれば、魚はよほど丈夫なものに違ないと云う断案はすぐに下す事が出来る。それならなぜ魚がそんなに丈夫なのかと云えばこれまた人間を待ってしかる後《のち》に知らざるなりで、訳《わけ》はない。すぐ分る。全く潮水《しおみず》を呑んで始終海水浴をやっているからだ。海水浴の功能はしかく魚に取って顕著《けんちょ》である。魚に取って顕著である以上は人間に取っても顕著でなくてはならん。一七五〇年にドクトル・リチャード・ラッセルがブライトンの海水に飛込めば四百四病|即席《そくせき》全快と大袈裟《おおげさ》な広告を出したのは遅い遅いと笑ってもよろしい。猫といえども相当の時機が到着すれば、みんな鎌倉あたりへ出掛けるつもりでいる。但《ただ》し今はいけない。物には時機がある。御維新前《ごいっしんまえ》の日本人が海水浴の功能を味わう事が出来ずに死んだごとく、今日《こんにち》の猫はいまだ裸体で海の中へ飛び込むべき機会に遭遇《そうぐう》しておらん。せいては事を仕損《しそ》んずる、今日のように築地《つきじ》へ打っちゃられに行った猫が無事に帰宅せん間は無暗《むやみ》に飛び込む訳には行かん。進化の法則で吾等猫輩の機能が狂瀾怒濤《きょうらんどとう》に対して適当の抵抗力を生ずるに至るまでは――換言すれば猫が死[#「死」に傍点]んだと云う代りに猫が上[#「上」に傍点]がったと云う語が一般に使用せらるるまでは――容易に海水浴は出来ん。
 海水浴は追って実行する事にして、運動だけは取りあえずやる事に取り極《き》めた。どうも二十世紀の今日《こんにち》運動せんのはいかにも貧民のようで人聞きがわるい。運動をせんと、運動せんのではない。運動が出来んのである、運動をする時間がないのである、余裕がないのだと鑑定される。昔は運動したものが折助《おりすけ》と笑われたごとく、今では運動をせぬ者が下等と見做《みな》されている。吾人の評価は時と場合に応じ吾輩の眼玉のごとく変化する。吾輩の眼玉はただ小さくなったり大きくなったりするばかりだが、人間の品隲《ひんしつ》とくると真逆《まっさ》かさまにひっくり返る。ひっくり返っても差《さ》し支《つか》えはない。物には両面がある、両端《りょうたん》がある。両端を叩《たた》いて黒白《こくびゃく》の変化を同一物の上に起こすところが人間の融通のきくところである。方寸[#「方寸」に傍点]を逆《さ》かさまにして見ると寸方[#「寸方」に傍点]となるところに愛嬌《あいきょう》がある。天《あま》の橋立《はしだて》を股倉《またぐら》から覗《のぞ》いて見るとまた格別な趣《おもむき》が出る。セクスピヤも千古万古セクスピヤではつまらない。偶《たま》には股倉からハムレットを見て、君こりゃ駄目だよくらいに云う者がないと、文界も進歩しないだろう。だから運動をわるく云った連中が急に運動がしたくなって、女までがラケットを持って往来をあるき廻ったって一向《いっこう》不思議はない。ただ猫が運動するのを利《き》いた風だなどと笑いさえしなければよい。さて吾輩の運動はいかなる種類の運動かと不審を抱《いだ》く者があるかも知れんから一応説明しようと思う。御承知のごとく不幸にして機械を持つ事が出来ん。だからボールもバットも取り扱い方に困窮する。次には金がないから買う訳《わけ》に行かない。この二つの源因からして吾輩の選んだ運動は一文《いちもん》いらず器械なしと名づくべき種類に属する者と思う。そんなら、のそのそ歩くか、あるいは鮪《まぐろ》の切身を啣《くわ》えて馳《か》け出す事と考えるかも知れんが、ただ四本の足を力学的に運動させて、地球の引力に順《したが》って、大地を横行するのは、あまり単簡《たんかん》で興味がない。いくら運動と名がついても、主人の時々実行するような、読んで字のごとき運動はどうも運動の神聖を汚《け》がす者だろうと思う。勿論《もちろん》ただの運動でもある刺激の下《もと》にはやらんとは限らん。鰹節競争《かつぶしきょうそう》、鮭探《しゃけさが》しなどは結構だがこれは肝心《かんじん》の対象物があっての上の事で、この刺激を取り去ると索然《さくぜん》として没趣味なものになってしまう。懸賞的興奮剤がないとすれば何か芸のある運動がして見たい。吾輩はいろいろ考えた。台所の廂《ひさし》から家根《やね》に飛び上がる方、家根の天辺《てっぺん》にある梅花形《ばいかがた》の瓦《かわら》の上に四本足で立つ術、物干竿《ものほしざお》を渡る事――これはとうてい成功しない、竹がつるつる滑《す》べって爪が立たない。後《うし》ろから不意に小供に飛びつく事、――これはすこぶる興味のある運動の一《ひとつ》だが滅多《めった》にやるとひどい目に逢うから、高々《たかだか》月に三度くらいしか試みない。紙袋《かんぶくろ》を頭へかぶせらるる事――これは苦しいばかりではなはだ興味の乏《とぼ》しい方法である。ことに人間の相手がおらんと成功しないから駄目。次には書物の表紙を爪で引き掻《か》く事、――これは主人に見付かると必ずどやされる危険があるのみならず、割合に手先の器用ばかりで総身の筋肉が働かない。これらは吾輩のいわゆる旧式運動なる者である。新式のうちにはなかなか興味の深いのがある。第一に蟷螂狩《とうろうが》り。――蟷螂狩りは鼠狩《ねずみが》りほどの大運動でない代りにそれほどの危険がない。夏の半《なかば》から秋の始めへかけてやる遊戯としてはもっとも上乗のものだ。その方法を云うとまず庭へ出て、一匹の蟷螂《かまきり》をさがし出す。時候がいいと一匹や二匹見付け出すのは雑作《ぞうさ》もない。さて見付け出した蟷螂君の傍《そば》へはっと風を切って馳《か》けて行く。するとすわこそと云う身構《みがまえ》をして鎌首をふり上げる。蟷螂でもなかなか健気《けなげ》なもので、相手の力量を知らんうちは抵抗するつもりでいるから面白い。振り上げた鎌首を右の前足でちょっと参る。振り上げた首は軟かいからぐにゃり横へ曲る。この時の蟷螂君の表情がすこぶる興味を添える。おやと云う思い入れが充分ある。ところを一足《いっそく》飛びに君《きみ》の後《うし》ろへ廻って今度は背面から君の羽根を軽《かろ》く引き掻《か》く。あの羽根は平生大事に畳《たた》んであるが、引き掻き方が烈《はげ》しいと、ぱっと乱れて中から吉野紙のような薄色の下着があらわれる。君は夏でも御苦労千万に二枚重ねで乙《おつ》に極《き》まっている。この時君の長い首は必ず後ろに向き直る。ある時は向ってくるが、大概の場合には首だけぬっと立てて立っている。こっちから手出しをするのを待ち構えて見える。先方がいつまでもこの態度でいては運動にならんから、あまり長くなるとまたちょいと一本参る。これだけ参ると眼識のある蟷螂なら必ず逃げ出す。それを我無洒落《がむしゃら》に向ってくるのはよほど無教育な野蛮的蟷螂である。もし相手がこの野蛮な振舞をやると、向って来たところを覘《ねら》いすまして、いやと云うほど張り付けてやる。大概は二三尺飛ばされる者である。しかし敵がおとなしく背面に前進すると、こっちは気の毒だから庭の立木を二三度飛鳥のごとく廻ってくる。蟷螂君《かまきりくん》はまだ五六寸しか逃げ延びておらん。もう吾輩の力量を知ったから手向いをする勇気はない。ただ右往左往へ逃げ惑《まど》うのみである。しかし吾輩も右往左往へ追っかけるから、君はしまいには苦しがって羽根を振《ふる》って一大活躍を試みる事がある。元来蟷螂の羽根は彼の首と調和して、すこぶる細長く出来上がったものだが、聞いて見ると全く装飾用だそうで、人間の英語、仏語、独逸語《ドイツご》のごとく毫《ごう》も実用にはならん。だから無用の長物を利用して一大活躍を試みたところが吾輩に対してあまり功能のありよう訳がない。名前は活躍だが事実は地面の上を引きずってあるくと云うに過ぎん。こうなると少々気の毒な感はあるが運動のためだから仕方がない。御免蒙《ごめんこうむ》ってたちまち前面へ馳《か》け抜ける。君は惰性で急廻転が出来ないからやはりやむを得ず前進してくる。その鼻をなぐりつける。この時蟷螂君は必ず羽根を広げたまま仆《たお》れる。その上をうんと前足で抑《おさ》えて少しく休息する。それからまた放す。放しておいてまた抑える。七擒七縦《しちきんしちしょう》孔明《こうめい》の軍略で攻めつける。約三十分この順序を繰り返して、身動きも出来なくなったところを見すましてちょっと口へ啣《くわ》えて振って見る。それからまた吐き出す。今度は地面の上へ寝たぎり動かないから、こっちの手で突っ付いて、その勢で飛び上がるところをまた抑えつける。これもいやになってから、最後の手段としてむしゃむしゃ食ってしまう。ついでだから蟷螂を食った事のない人に話しておくが、蟷螂はあまり旨《うま》い物ではない。そうして滋養分も存外少ないようである。蟷螂狩《とうろうが》りに次いで蝉取《せみと》りと云う運動をやる。単に蝉と云ったところが同じ物ばかりではない。人間にも油野郎《あぶらやろう》、みんみん野郎、おしいつくつく野郎があるごとく、蝉にも油蝉、みんみん、おしいつくつくがある。油蝉はしつこくて行《い》かん。みんみんは横風《おうふう》で困る。ただ取って面白いのはおしいつくつくである。これは夏の末にならないと出て来ない。八《や》つ口《くち》の綻《ほころ》びから秋風《あきかぜ》が断わりなしに膚《はだ》を撫《な》でてはっくしょ風邪《かぜ》を引いたと云う頃|熾《さかん》に尾を掉《ふ》り立ててなく。善《よ》く鳴く奴で、吾輩から見ると鳴くのと猫にとられるよりほかに天職がないと思われるくらいだ。秋の初はこいつを取る。これを称して蝉取り運動と云う。ちょっと諸君に話しておくがいやしくも蝉と名のつく以上は、地面の上に転《ころ》がってはおらん。地面の上に落ちているものには必ず蟻《あり》がついている。吾輩の取るのはこの蟻の領分に寝転んでいる奴ではない。高い木の枝にとまって、おしいつくつくと鳴いている連中を捕《とら》えるのである。これもついでだから博学なる人間に聞きたいがあれはおしいつくつくと鳴くのか、つくつくおしいと鳴くのか、その解釈次第によっては蝉の研究上少なからざる関係があると思う。人間の猫に優《まさ》るところはこんなところに存するので、人間の自《みずか》ら誇る点もまたかような点にあるのだから、今即答が出来ないならよく考えておいたらよかろう。もっとも蝉取り運動上はどっちにしても差《さ》し支《つか》えはない。ただ声をしるべに木を上《のぼ》って行って、先方が夢中になって鳴いているところをうんと捕えるばかりだ。これはもっとも簡略な運動に見えてなかなか骨の折れる運動である。吾輩は四本の足を有しているから大地を行く事においてはあえて他の動物には劣るとは思わない。少なくとも二本と四本の数学的智識から判断して見て人間には負けないつもりである。しかし木登りに至っては大分《だいぶ》吾輩より巧者な奴がいる。本職の猿は別物として、猿の末孫《ばっそん》たる人間にもなかなか侮《あなど》るべからざる手合《てあい》がいる。元来が引力に逆らっての無理な事業だから出来なくても別段の恥辱《ちじょく》とは思わんけれども、蝉取り運動上には少なからざる不便を与える。幸に爪と云う利器があるので、どうかこうか登りはするものの、はたで見るほど楽ではござらん。のみならず蝉は飛ぶものである。蟷螂君《かまきりくん》と違って一たび飛んでしまったが最後、せっかくの木登りも、木登らずと何の択《えら》むところなしと云う悲運に際会する事がないとも限らん。最後に時々蝉から小便をかけられる危険がある。あの小便がややともすると眼を覘《ねら》ってしょぐってくるようだ。逃げるのは仕方がないから、どうか小便ばかりは垂れんように致したい。飛ぶ間際《まぎわ》に溺《いば》りを仕《つかまつ》るのは一体どう云う心理的状態の生理的器械に及ぼす影響だろう。やはりせつなさのあまりかしらん。あるいは敵の不意に出でて、ちょっと逃げ出す余裕を作るための方便か知らん。そうすると烏賊《いか》の墨を吐き、ベランメーの刺物《ほりもの》を見せ、主人が羅甸語《ラテンご》を弄する類《たぐい》と同じ綱目《こうもく》に入るべき事項となる。これも蝉学上|忽《ゆる》かせにすべからざる問題である。充分研究すればこれだけでたしかに博士論文の価値はある。それは余事だから、そのくらいにしてまた本題に帰る。蝉のもっとも集注するのは――集注がおかしければ集合だが、集合は陳腐《ちんぷ》だからやはり集注にする。――蝉のもっとも集注するのは青桐《あおぎり》である。漢名を梧桐《ごとう》と号するそうだ。ところがこの青桐は葉が非常に多い、しかもその葉は皆|団扇《うちわ》くらいな大《おおき》さであるから、彼等が生《お》い重なると枝がまるで見えないくらい茂っている。これがはなはだ蝉取り運動の妨害になる。声はすれども姿は見えずと云う俗謡《ぞくよう》はとくに吾輩のために作った者ではなかろうかと怪しまれるくらいである。吾輩は仕方がないからただ声を知るべに行く。下から一間ばかりのところで梧桐は注文通り二叉《ふたまた》になっているから、ここで一休息《ひとやすみ》して葉裏から蝉の所在地を探偵する。もっともここまで来るうちに、がさがさと音を立てて、飛び出す気早な連中がいる。一羽飛ぶともういけない。真似をする点において蝉は人間に劣らぬくらい馬鹿である。あとから続々飛び出す。漸々《ようよう》二叉《ふたまた》に到着する時分には満樹|寂《せき》として片声《へんせい》をとどめざる事がある。かつてここまで登って来て、どこをどう見廻わしても、耳をどう振っても蝉気《せみけ》がないので、出直すのも面倒だからしばらく休息しようと、叉《また》の上に陣取って第二の機会を待ち合せていたら、いつの間《ま》にか眠くなって、つい黒甜郷裡《こくてんきょうり》に遊んだ。おやと思って眼が醒《さ》めたら、二叉の黒甜郷裡《こくてんきょうり》から庭の敷石の上へどたりと落ちていた。しかし大概は登る度に一つは取って来る。ただ興味の薄い事には樹の上で口に啣《くわ》えてしまわなくてはならん。だから下へ持って来て吐き出す時は大方《おおかた》死んでいる。いくらじゃらしても引っ掻《か》いても確然たる手答がない。蝉取りの妙味はじっと忍んで行っておしい君《くん》が一生懸命に尻尾《しっぽ》を延ばしたり縮《ちぢ》ましたりしているところを、わっと前足で抑《おさ》える時にある。この時つくつく君《くん》は悲鳴を揚げて、薄い透明な羽根を縦横無尽に振う。その早い事、美事なる事は言語道断、実に蝉世界の一偉観である。余はつくつく君を抑える度《たび》にいつでも、つくつく君に請求してこの美術的演芸を見せてもらう。それがいやになるとご免を蒙《こうむ》って口の内へ頬張《ほおば》ってしまう。蝉によると口の内へ這入《はい》ってまで演芸をつづけているのがある。蝉取りの次にやる運動は松滑《まつすべ》りである。これは長くかく必要もないから、ちょっと述べておく。松滑りと云うと松を滑るように思うかも知れんが、そうではないやはり木登りの一種である。ただ蝉取りは蝉を取るために登り、松滑りは、登る事を目的として登る。これが両者の差である。元来松は常磐《ときわ》にて最明寺《さいみょうじ》の御馳走《ごちそう》をしてから以来|今日《こんにち》に至るまで、いやにごつごつしている。従って松の幹ほど滑らないものはない。手懸りのいいものはない。足懸りのいいものはない。――換言すれば爪懸《つまがか》りのいいものはない。その爪懸りのいい幹へ一気呵成《いっきかせい》に馳《か》け上《あが》る。馳け上っておいて馳け下がる。馳け下がるには二法ある。一はさかさになって頭を地面へ向けて下りてくる。一は上《のぼ》ったままの姿勢をくずさずに尾を下にして降りる。人間に問うがどっちがむずかしいか知ってるか。人間のあさはかな了見《りょうけん》では、どうせ降りるのだから下向《したむき》に馳け下りる方が楽だと思うだろう。それが間違ってる。君等は義経が鵯越《ひよどりごえ》を落《お》としたことだけを心得て、義経でさえ下を向いて下りるのだから猫なんぞは無論|下《し》た向きでたくさんだと思うのだろう。そう軽蔑《けいべつ》するものではない。猫の爪はどっちへ向いて生《は》えていると思う。みんな後《うし》ろへ折れている。それだから鳶口《とびぐち》のように物をかけて引き寄せる事は出来るが、逆に押し出す力はない。今吾輩が松の木を勢よく馳け登ったとする。すると吾輩は元来地上の者であるから、自然の傾向から云えば吾輩が長く松樹の巓《いただき》に留《とど》まるを許さんに相違ない、ただおけば必ず落ちる。しかし手放しで落ちては、あまり早過ぎる。だから何等かの手段をもってこの自然の傾向を幾分かゆるめなければならん。これ即《すなわ》ち降りるのである。落ちるのと降りるのは大変な違のようだが、その実思ったほどの事ではない。落ちるのを遅くすると降りるので、降りるのを早くすると落ちる事になる。落ちると降りるのは、ち[#「ち」に傍点]とり[#「り」に傍点]の差である。吾輩は松の木の上から落ちるのはいやだから、落ちるのを緩《ゆる》めて降りなければならない。即《すなわ》ちあるものをもって落ちる速度に抵抗しなければならん。吾輩の爪は前《ぜん》申す通り皆|後《うし》ろ向きであるから、もし頭を上にして爪を立てればこの爪の力は悉《ことごと》く、落ちる勢に逆《さから》って利用出来る訳である。従って落ちるが変じて降りるになる。実に見易《みやす》き道理である。しかるにまた身を逆《さか》にして義経流に松の木|越《ごえ》をやって見給え。爪はあっても役には立たん。ずるずる滑って、どこにも自分の体量を持ち答える事は出来なくなる。ここにおいてかせっかく降りようと企《くわだ》てた者が変化して落ちる事になる。この通り鵯越《ひよどりごえ》はむずかしい。猫のうちでこの芸が出来る者は恐らく吾輩のみであろう。それだから吾輩はこの運動を称して松滑りと云うのである。最後に垣巡《かきめぐ》りについて一言《いちげん》する。主人の庭は竹垣をもって四角にしきられている。椽側《えんがわ》と平行している一片《いっぺん》は八九間もあろう。左右は双方共四間に過ぎん。今吾輩の云った垣巡りと云う運動はこの垣の上を落ちないように一周するのである。これはやり損《そこな》う事もままあるが、首尾よく行くとお慰《なぐさみ》になる。ことに所々に根を焼いた丸太が立っているから、ちょっと休息に便宜《べんぎ》がある。今日は出来がよかったので朝から昼までに三|返《べん》やって見たが、やるたびにうまくなる。うまくなる度《たび》に面白くなる。とうとう四返繰り返したが、四返目に半分ほど巡《まわ》りかけたら、隣の屋根から烏が三羽飛んで来て、一間ばかり向うに列を正してとまった。これは推参な奴だ。人の運動の妨《さまたげ》をする、ことにどこの烏だか籍《せき》もない分在《ぶんざい》で、人の塀へとまるという法があるもんかと思ったから、通るんだおい除《の》きたまえと声をかけた。真先の烏はこっちを見てにやにや笑っている。次のは主人の庭を眺《なが》めている。三羽目は嘴《くちばし》を垣根の竹で拭《ふ》いている。何か食って来たに違ない。吾輩は返答を待つために、彼等に三分間の猶予《ゆうよ》を与えて、垣の上に立っていた。烏は通称を勘左衛門と云うそうだが、なるほど勘左衛門だ。吾輩がいくら待ってても挨拶もしなければ、飛びもしない。吾輩は仕方がないから、そろそろ歩き出した。すると真先の勘左衛門がちょいと羽を広げた。やっと吾輩の威光に恐れて逃げるなと思ったら、右向から左向に姿勢をかえただけである。この野郎! 地面の上ならその分に捨ておくのではないが、いかんせん、たださえ骨の折れる道中に、勘左衛門などを相手にしている余裕がない。といってまた立留まって三羽が立ち退《の》くのを待つのもいやだ。第一そう待っていては足がつづかない。先方は羽根のある身分であるから、こんな所へはとまりつけている。従って気に入ればいつまでも逗留《とうりゅう》するだろう。こっちはこれで四返目だたださえ大分《だいぶ》労《つか》れている。いわんや綱渡りにも劣らざる芸当兼運動をやるのだ。何等の障害物がなくてさえ落ちんとは保証が出来んのに、こんな黒装束《くろしょうぞく》が、三個も前途を遮《さえぎ》っては容易ならざる不都合だ。いよいよとなれば自《みずか》ら運動を中止して垣根を下りるより仕方がない。面倒だから、いっそさよう仕ろうか、敵は大勢の事ではあるし、ことにはあまりこの辺には見馴れぬ人体《にんてい》である。口嘴《くちばし》が乙《おつ》に尖《とん》がって何だか天狗《てんぐ》の啓《もう》し子《ご》のようだ。どうせ質《たち》のいい奴でないには極《きま》っている。退却が安全だろう、あまり深入りをして万一落ちでもしたらなおさら恥辱だ。と思っていると左向《ひだりむけ》をした烏が阿呆《あほう》と云った。次のも真似をして阿呆と云った。最後の奴は御鄭寧《ごていねい》にも阿呆阿呆と二声叫んだ。いかに温厚なる吾輩でもこれは看過《かんか》出来ない。第一自己の邸内で烏輩《からすはい》に侮辱されたとあっては、吾輩の名前にかかわる。名前はまだないから係わりようがなかろうと云うなら体面に係わる。決して退却は出来ない。諺《ことわざ》にも烏合《うごう》の衆と云うから三羽だって存外弱いかも知れない。進めるだけ進めと度胸を据《す》えて、のそのそ歩き出す。烏は知らん顔をして何か御互に話をしている様子だ。いよいよ肝癪《かんしゃく》に障《さわ》る。垣根の幅がもう五六寸もあったらひどい目に合せてやるんだが、残念な事にはいくら怒《おこ》っても、のそのそとしかあるかれない。ようやくの事|先鋒《せんぽう》を去る事約五六寸の距離まで来てもう一息だと思うと、勘左衛門は申し合せたように、いきなり羽搏《はばたき》をして一二尺飛び上がった。その風が突然余の顔を吹いた時、はっと思ったら、つい踏み外《は》ずして、すとんと落ちた。これはしくじったと垣根の下から見上げると、三羽共元の所にとまって上から嘴《くちばし》を揃《そろ》えて吾輩の顔を見下している。図太い奴だ。睨《にら》めつけてやったが一向《いっこう》利《き》かない。背を丸くして、少々|唸《うな》ったが、ますます駄目だ。俗人に霊妙なる象徴詩がわからぬごとく、吾輩が彼等に向って示す怒りの記号も何等の反応を呈出しない。考えて見ると無理のないところだ。吾輩は今まで彼等を猫として取り扱っていた。それが悪るい。猫ならこのくらいやればたしかに応《こた》えるのだが生憎《あいにく》相手は烏だ。烏の勘公とあって見れば致し方がない。実業家が主人|苦沙弥《くしゃみ》先生を圧倒しようとあせるごとく、西行《さいぎょう》に銀製の吾輩を進呈するがごとく、西郷隆盛君の銅像に勘公が糞《ふん》をひるようなものである。機を見るに敏なる吾輩はとうてい駄目と見て取ったから、奇麗さっぱりと椽側へ引き上げた。もう晩飯の時刻だ。運動もいいが度を過ごすと行《い》かぬ者で、からだ全体が何となく緊《しま》りがない、ぐたぐたの感がある。のみならずまだ秋の取り付きで運動中に照り付けられた毛ごろもは、西日を思う存分吸収したと見えて、ほてってたまらない。毛穴から染《し》み出す汗が、流れればと思うのに毛の根に膏《あぶら》のようにねばり付く。背中《せなか》がむずむずする。汗でむずむずするのと蚤《のみ》が這《は》ってむずむずするのは判然と区別が出来る。口の届く所なら噛《か》む事も出来る、足の達する領分は引き掻《か》く事も心得にあるが、脊髄《せきずい》の縦に通う真中と来たら自分の及ぶ限《かぎり》でない。こう云う時には人間を見懸けて矢鱈《やたら》にこすり付けるか、松の木の皮で充分摩擦術を行うか、二者その一を択《えら》ばんと不愉快で安眠も出来兼ねる。人間は愚《ぐ》なものであるから、猫なで声で――猫なで声は人間の吾輩に対して出す声だ。吾輩を目安《めやす》にして考えれば猫なで声ではない、なでられ声である――よろしい、とにかく人間は愚なものであるから撫《な》でられ声で膝の傍《そば》へ寄って行くと、大抵の場合において彼もしくは彼女を愛するものと誤解して、わが為《な》すままに任せるのみか折々は頭さえ撫《な》でてくれるものだ。しかるに近来吾輩の毛中《もうちゅう》にのみと号する一種の寄生虫が繁殖したので滅多《めった》に寄り添うと、必ず頸筋《くびすじ》を持って向うへ抛《ほう》り出される。わずかに眼に入《い》るか入《い》らぬか、取るにも足らぬ虫のために愛想《あいそ》をつかしたと見える。手を翻《ひるがえ》せば雨、手を覆《くつがえ》せば雲とはこの事だ。高がのみの千|疋《びき》や二千疋でよくまあこんなに現金な真似が出来たものだ。人間世界を通じて行われる愛の法則の第一条にはこうあるそうだ。――自己の利益になる間は、すべからく人を愛すべし。――人間の取り扱が俄然豹変《がぜんひょうへん》したので、いくら痒《か》ゆくても人力を利用する事は出来ん。だから第二の方法によって松皮《しょうひ》摩擦法《まさつほう》をやるよりほかに分別はない。しからばちょっとこすって参ろうかとまた椽側《えんがわ》から降りかけたが、いやこれも利害相償わぬ愚策だと心付いた。と云うのはほかでもない。松には脂《やに》がある。この脂《やに》たるすこぶる執着心の強い者で、もし一たび、毛の先へくっ付けようものなら、雷が鳴ってもバルチック艦隊が全滅しても決して離れない。しかのみならず五本の毛へこびりつくが早いか、十本に蔓延《まんえん》する。十本やられたなと気が付くと、もう三十本引っ懸っている。吾輩は淡泊《たんぱく》を愛する茶人的猫《ちゃじんてきねこ》である。こんな、しつこい、毒悪な、ねちねちした、執念深《しゅうねんぶか》い奴は大嫌だ。たとい天下の美猫《びみょう》といえどもご免蒙る。いわんや松脂《まつやに》においてをやだ。車屋の黒の両眼から北風に乗じて流れる目糞と択《えら》ぶところなき身分をもって、この淡灰色《たんかいしょく》の毛衣《けごろも》を大《だい》なしにするとは怪《け》しからん。少しは考えて見るがいい。といったところできゃつなかなか考える気遣《きづかい》はない。あの皮のあたりへ行って背中をつけるが早いか必ずべたりとおいでになるに極《きま》っている。こんな無分別な頓痴奇《とんちき》を相手にしては吾輩の顔に係わるのみならず、引いて吾輩の毛並に関する訳だ。いくら、むずむずしたって我慢するよりほかに致し方はあるまい。しかしこの二方法共実行出来んとなるとはなはだ心細い。今において一工夫《ひとくふう》しておかんとしまいにはむずむず、ねちねちの結果病気に罹《かか》るかも知れない。何か分別はあるまいかなと、後《あ》と足《あし》を折って思案したが、ふと思い出した事がある。うちの主人は時々手拭と石鹸《シャボン》をもって飄然《ひょうぜん》といずれへか出て行く事がある、三四十分して帰ったところを見ると彼の朦朧《もうろう》たる顔色《がんしょく》が少しは活気を帯びて、晴れやかに見える。主人のような汚苦《むさくる》しい男にこのくらいな影響を与えるなら吾輩にはもう少し利目《ききめ》があるに相違ない。吾輩はただでさえこのくらいな器量だから、これより色男になる必要はないようなものの、万一病気に罹《かか》って一歳|何《なん》が月《げつ》で夭折《ようせつ》するような事があっては天下の蒼生《そうせい》に対して申し訳がない。聞いて見るとこれも人間のひま潰《つぶ》しに案出した洗湯《せんとう》なるものだそうだ。どうせ人間の作ったものだから碌《ろく》なものでないには極《きま》っているがこの際の事だから試しに這入《はい》って見るのもよかろう。やって見て功験がなければよすまでの事だ。しかし人間が自己のために設備した浴場へ異類の猫を入れるだけの洪量《こうりょう》があるだろうか。これが疑問である。主人がすまして這入《はい》るくらいのところだから、よもや吾輩を断わる事もなかろうけれども万一お気の毒様を食うような事があっては外聞がわるい。これは一先《ひとま》ず容子《ようす》を見に行くに越した事はない。見た上でこれならよいと当りが付いたら、手拭を啣《くわ》えて飛び込んで見よう。とここまで思案を定めた上でのそのそと洗湯へ出掛けた。
 横町を左へ折れると向うに高いとよ竹のようなものが屹立《きつりつ》して先から薄い煙を吐いている。これ即《すなわ》ち洗湯である。吾輩はそっと裏口から忍び込んだ。裏口から忍び込むのを卑怯《ひきょう》とか未練とか云うが、あれは表からでなくては訪問する事が出来ぬものが嫉妬《しっと》半分に囃《はや》し立てる繰《く》り言《ごと》である。昔から利口な人は裏口から不意を襲う事にきまっている。紳士養成|方《ほう》の第二巻第一章の五ページにそう出ているそうだ。その次のページには裏口は紳士の遺書にして自身徳を得るの門なりとあるくらいだ。吾輩は二十世紀の猫だからこのくらいの教育はある。あんまり軽蔑《けいべつ》してはいけない。さて忍び込んで見ると、左の方に松を割って八寸くらいにしたのが山のように積んであって、その隣りには石炭が岡のように盛ってある。なぜ松薪《まつまき》が山のようで、石炭が岡のようかと聞く人があるかも知れないが、別に意味も何もない、ただちょっと山と岡を使い分けただけである。人間も米を食ったり、鳥を食ったり、肴《さかな》を食ったり、獣《けもの》を食ったりいろいろの悪《あく》もの食いをしつくしたあげくついに石炭まで食うように堕落したのは不憫《ふびん》である。行き当りを見ると一間ほどの入口が明け放しになって、中を覗《のぞ》くとがんがらがんのがあんと物静かである。その向側《むこうがわ》で何かしきりに人間の声がする。いわゆる洗湯はこの声の発する辺《へん》に相違ないと断定したから、松薪と石炭の間に出来てる谷あいを通り抜けて左へ廻って、前進すると右手に硝子窓《ガラスまど》があって、そのそとに丸い小桶《こおけ》が三角形|即《すなわ》ちピラミッドのごとく積みかさねてある。丸いものが三角に積まれるのは不本意千万だろうと、ひそかに小桶諸君の意を諒《りょう》とした。小桶の南側は四五尺の間《あいだ》板が余って、あたかも吾輩を迎うるもののごとく見える。板の高さは地面を去る約一メートルだから飛び上がるには御誂《おあつら》えの上等である。よろしいと云いながらひらりと身を躍《おど》らすといわゆる洗湯は鼻の先、眼の下、顔の前にぶらついている。天下に何が面白いと云って、未《いま》だ食わざるものを食い、未だ見ざるものを見るほどの愉快はない。諸君もうちの主人のごとく一週三度くらい、この洗湯界に三十分|乃至《ないし》四十分を暮すならいいが、もし吾輩のごとく風呂と云うものを見た事がないなら、早く見るがいい。親の死目《しにめ》に逢《あ》わなくてもいいから、これだけは是非見物するがいい。世界広しといえどもこんな奇観《きかん》はまたとあるまい。
 何が奇観だ? 何が奇観だって吾輩はこれを口にするを憚《はば》かるほどの奇観だ。この硝子窓《ガラスまど》の中にうじゃうじゃ、があがあ騒いでいる人間はことごとく裸体である。台湾の生蕃《せいばん》である。二十世紀のアダムである。そもそも衣装《いしょう》の歴史を繙《ひもと》けば――長い事だからこれはトイフェルスドレック君に譲って、繙くだけはやめてやるが、――人間は全く服装で持ってるのだ。十八世紀の頃大英国バスの温泉場においてボー・ナッシが厳重な規則を制定した時などは浴場内で男女共肩から足まで着物でかくしたくらいである。今を去る事六十年|前《ぜん》これも英国の去る都で図案学校を設立した事がある。図案学校の事であるから、裸体画、裸体像の模写、模型を買い込んで、ここ、かしこに陳列したのはよかったが、いざ開校式を挙行する一段になって当局者を初め学校の職員が大困却をした事がある。開校式をやるとすれば、市の淑女を招待しなければならん。ところが当時の貴婦人方の考によると人間は服装の動物である。皮を着た猿の子分ではないと思っていた。人間として着物をつけないのは象の鼻なきがごとく、学校の生徒なきがごとく、兵隊の勇気なきがごとく全くその本体を失《しっ》している。いやしくも本体を失している以上は人間としては通用しない、獣類である。仮令《たとい》模写模型にせよ獣類の人間と伍するのは貴女の品位を害する訳である。でありますから妾等《しょうら》は出席御断わり申すと云われた。そこで職員共は話せない連中だとは思ったが、何しろ女は東西両国を通じて一種の装飾品である。米舂《こめつき》にもなれん志願兵にもなれないが、開校式には欠くべからざる化装道具《けしょうどうぐ》である。と云うところから仕方がない、呉服屋へ行って黒布《くろぬの》を三十五反|八分七《はちぶんのしち》買って来て例の獣類の人間にことごとく着物をきせた。失礼があってはならんと念に念を入れて顔まで着物をきせた。かようにしてようやくの事|滞《とどこお》りなく式をすましたと云う話がある。そのくらい衣服は人間にとって大切なものである。近頃は裸体画裸体画と云ってしきりに裸体を主張する先生もあるがあれはあやまっている。生れてから今日《こんにち》に至るまで一日も裸体になった事がない吾輩から見ると、どうしても間違っている。裸体は希臘《ギリシャ》、羅馬《ローマ》の遺風が文芸復興時代の淫靡《いんび》の風《ふう》に誘われてから流行《はや》りだしたもので、希臘人や、羅馬人は平常《ふだん》から裸体を見做《みな》れていたのだから、これをもって風教上の利害の関係があるなどとは毫《ごう》も思い及ばなかったのだろうが北欧は寒い所だ。日本でさえ裸で道中がなるものかと云うくらいだから独逸《ドイツ》や英吉利《イギリス》で裸になっておれば死んでしまう。死んでしまってはつまらないから着物をきる。みんなが着物をきれば人間は服装の動物になる。一たび服装の動物となった後《のち》に、突然裸体動物に出逢えば人間とは認めない、獣《けだもの》と思う。それだから欧洲人ことに北方の欧洲人は裸体画、裸体像をもって獣として取り扱っていいのである。猫に劣る獣と認定していいのである。美しい? 美しくても構わんから、美しい獣と見做《みな》せばいいのである。こう云うと西洋婦人の礼服を見たかと云うものもあるかも知れないが、猫の事だから西洋婦人の礼服を拝見した事はない。聞くところによると彼等は胸をあらわし、肩をあらわし、腕をあらわしてこれを礼服と称しているそうだ。怪《け》しからん事だ。十四世紀頃までは彼等の出《い》で立《た》ちはしかく滑稽ではなかった、やはり普通の人間の着るものを着ておった。それがなぜこんな下等な軽術師《かるわざし》流に転化してきたかは面倒だから述べない。知る人ぞ知る、知らぬものは知らん顔をしておればよろしかろう。歴史はとにかく彼等はかかる異様な風態をして夜間だけは得々《とくとく》たるにも係わらず内心は少々人間らしいところもあると見えて、日が出ると、肩をすぼめる、胸をかくす、腕を包む、どこもかしこもことごとく見えなくしてしまうのみならず、足の爪一本でも人に見せるのを非常に恥辱と考えている。これで考えても彼等の礼服なるものは一種の頓珍漢的《とんちんかんてき》作用《さよう》によって、馬鹿と馬鹿の相談から成立したものだと云う事が分る。それが口惜《くや》しければ日中《にっちゅう》でも肩と胸と腕を出していて見るがいい。裸体信者だってその通りだ。それほど裸体がいいものなら娘を裸体にして、ついでに自分も裸になって上野公園を散歩でもするがいい、できない? 出来ないのではない、西洋人がやらないから、自分もやらないのだろう。現にこの不合理極まる礼服を着て威張って帝国ホテルなどへ出懸《でか》けるではないか。その因縁《いんねん》を尋ねると何にもない。ただ西洋人がきるから、着ると云うまでの事だろう。西洋人は強いから無理でも馬鹿気ていても真似なければやり切れないのだろう。長いものには捲《ま》かれろ、強いものには折れろ、重いものには圧《お》されろと、そうれろ[#「れろ」に傍点]尽しでは気が利《き》かんではないか。気が利《き》かんでも仕方がないと云うなら勘弁するから、あまり日本人をえらい者と思ってはいけない。学問といえどもその通りだがこれは服装に関係がない事だから以下略とする。
 衣服はかくのごとく人間にも大事なものである。人間が衣服か、衣服が人間かと云うくらい重要な条件である。人間の歴史は肉の歴史にあらず、骨の歴史にあらず、血の歴史にあらず、単に衣服の歴史であると申したいくらいだ。だから衣服を着けない人間を見ると人間らしい感じがしない。まるで化物《ばけもの》に邂逅《かいこう》したようだ。化物でも全体が申し合せて化物になれば、いわゆる化物は消えてなくなる訳だから構わんが、それでは人間自身が大《おおい》に困却する事になるばかりだ。その昔《むか》し自然は人間を平等なるものに製造して世の中に抛《ほう》り出した。だからどんな人間でも生れるときは必ず赤裸《あかはだか》である。もし人間の本性《ほんせい》が平等に安んずるものならば、よろしくこの赤裸のままで生長してしかるべきだろう。しかるに赤裸の一人が云うにはこう誰も彼も同じでは勉強する甲斐《かい》がない。骨を折った結果が見えぬ。どうかして、おれはおれだ誰が見てもおれだと云うところが目につくようにしたい。それについては何か人が見てあっと魂消《たまげ》る物をからだにつけて見たい。何か工夫はあるまいかと十年間考えてようやく猿股《さるまた》を発明してすぐさまこれを穿《は》いて、どうだ恐れ入ったろうと威張ってそこいらを歩いた。これが今日《こんにち》の車夫の先祖である。単簡《たんかん》なる猿股を発明するのに十年の長日月を費《つい》やしたのはいささか異《い》な感もあるが、それは今日から古代に溯《さかのぼ》って身を蒙昧《もうまい》の世界に置いて断定した結論と云うもので、その当時にこれくらいな大発明はなかったのである。デカルトは「余は思考す、故に余は存在す」という三《み》つ子《ご》にでも分るような真理を考え出すのに十何年か懸ったそうだ。すべて考え出す時には骨の折れるものであるから猿股の発明に十年を費やしたって車夫の智慧《ちえ》には出来過ぎると云わねばなるまい。さあ猿股が出来ると世の中で幅のきくのは車夫ばかりである。あまり車夫が猿股をつけて天下の大道を我物顔に横行|濶歩《かっぽ》するのを憎らしいと思って負けん気の化物が六年間工夫して羽織と云う無用の長物を発明した。すると猿股の勢力は頓《とみ》に衰えて、羽織全盛の時代となった。八百屋、生薬屋《きぐすりや》、呉服屋は皆この大発明家の末流《ばつりゅう》である。猿股期、羽織期の後《あと》に来るのが袴期《はかまき》である。これは、何だ羽織の癖にと癇癪《かんしゃく》を起した化物の考案になったもので、昔の武士今の官員などは皆この種属である。かように化物共がわれもわれもと異《い》を衒《てら》い新《しん》を競《きそ》って、ついには燕《つばめ》の尾にかたどった畸形《きけい》まで出現したが、退いてその由来を案ずると、何も無理矢理に、出鱈目《でたらめ》に、偶然に、漫然に持ち上がった事実では決してない。皆勝ちたい勝ちたいの勇猛心の凝《こ》ってさまざまの新形《しんがた》となったもので、おれは手前じゃないぞと振れてあるく代りに被《かぶ》っているのである。して見るとこの心理からして一大発見が出来る。それはほかでもない。自然は真空を忌《い》むごとく、人間は平等を嫌うと云う事だ。すでに平等を嫌ってやむを得ず衣服を骨肉のごとくかようにつけ纏《まと》う今日において、この本質の一部分たる、これ等を打ちやって、元の杢阿弥《もくあみ》の公平時代に帰るのは狂人の沙汰である。よし狂人の名称を甘んじても帰る事は到底出来ない。帰った連中を開明人《かいめいじん》の目から見れば化物である。仮令《たとい》世界何億万の人口を挙《あ》げて化物の域に引ずりおろしてこれなら平等だろう、みんなが化物だから恥ずかしい事はないと安心してもやっぱり駄目である。世界が化物になった翌日からまた化物の競争が始まる。着物をつけて競争が出来なければ化物なりで競争をやる。赤裸《あかはだか》は赤裸でどこまでも差別を立ててくる。この点から見ても衣服はとうてい脱ぐ事は出来ないものになっている。
 しかるに今吾輩が眼下《がんか》に見下《みおろ》した人間の一団体は、この脱ぐべからざる猿股も羽織も乃至《ないし》袴《はかま》もことごとく棚の上に上げて、無遠慮にも本来の狂態を衆目環視《しゅうもくかんし》の裡《うち》に露出して平々然《へいへいぜん》と談笑を縦《ほしいま》まにしている。吾輩が先刻《さっき》一大奇観と云ったのはこの事である。吾輩は文明の諸君子のためにここに謹《つつし》んでその一般を紹介するの栄を有する。
 何だかごちゃごちゃしていて何《な》にから記述していいか分らない。化物のやる事には規律がないから秩序立った証明をするのに骨が折れる。まず湯槽《ゆぶね》から述べよう。湯槽だか何だか分らないが、大方《おおかた》湯槽というものだろうと思うばかりである。幅が三尺くらい、長《ながさ》は一間半もあるか、それを二つに仕切って一つには白い湯が這入《はい》っている。何でも薬湯《くすりゆ》とか号するのだそうで、石灰《いしばい》を溶かし込んだような色に濁っている。もっともただ濁っているのではない。膏《あぶら》ぎって、重た気《げ》に濁っている。よく聞くと腐って見えるのも不思議はない、一週間に一度しか水を易《か》えないのだそうだ。その隣りは普通一般の湯の由《よし》だがこれまたもって透明、瑩徹《えいてつ》などとは誓って申されない。天水桶《てんすいおけ》を攪《か》き混《ま》ぜたくらいの価値はその色の上において充分あらわれている。これからが化物の記述だ。大分《だいぶ》骨が折れる。天水桶の方に、突っ立っている若造《わかぞう》が二人いる。立ったまま、向い合って湯をざぶざぶ腹の上へかけている。いい慰《なぐさ》みだ。双方共色の黒い点において間然《かんぜん》するところなきまでに発達している。この化物は大分《だいぶ》逞ましいなと見ていると、やがて一人が手拭で胸のあたりを撫《な》で廻しながら「金さん、どうも、ここが痛んでいけねえが何だろう」と聞くと金さんは「そりゃ胃さ、胃て云う奴は命をとるからね。用心しねえとあぶないよ」と熱心に忠告を加える。「だってこの左の方だぜ」た左肺《さはい》の方を指す。「そこが胃だあな。左が胃で、右が肺だよ」「そうかな、おらあまた胃はここいらかと思った」と今度は腰の辺を叩《たた》いて見せると、金さんは「そりゃ疝気《せんき》だあね」と云った。ところへ二十五六の薄い髯《ひげ》を生《は》やした男がどぶんと飛び込んだ。すると、からだに付いていた石鹸《シャボン》が垢《あか》と共に浮きあがる。鉄気《かなけ》のある水を透《す》かして見た時のようにきらきらと光る。その隣りに頭の禿《は》げた爺さんが五分刈を捕《とら》えて何か弁じている。双方共頭だけ浮かしているのみだ。「いやこう年をとっては駄目さね。人間もやきが廻っちゃ若い者には叶《かな》わないよ。しかし湯だけは今でも熱いのでないと心持が悪くてね」「旦那なんか丈夫なものですぜ。そのくらい元気がありゃ結構だ」「元気もないのさ。ただ病気をしないだけさ。人間は悪い事さえしなけりゃあ百二十までは生きるもんだからね」「へえ、そんなに生きるもんですか」「生きるとも百二十までは受け合う。御維新前《ごいっしんまえ》牛込に曲淵《まがりぶち》と云う旗本《はたもと》があって、そこにいた下男は百三十だったよ」「そいつは、よく生きたもんですね」「ああ、あんまり生き過ぎてつい自分の年を忘れてね。百までは覚えていましたがそれから忘れてしまいましたと云ってたよ。それでわしの知っていたのが百三十の時だったが、それで死んだんじゃない。それからどうなったか分らない。事によるとまだ生きてるかも知れない」と云いながら槽《ふね》から上《あが》る。髯《ひげ》を生《は》やしている男は雲母《きらら》のようなものを自分の廻りに蒔《ま》き散らしながら独《ひと》りでにやにや笑っていた。入れ代って飛び込んで来たのは普通一般の化物とは違って背中《せなか》に模様画をほり付けている。岩見重太郎《いわみじゅうたろう》が大刀《だいとう》を振り翳《かざ》して蟒《うわばみ》を退治《たいじ》るところのようだが、惜しい事に未《ま》だ竣功《しゅんこう》の期に達せんので、蟒はどこにも見えない。従って重太郎先生いささか拍子抜けの気味に見える。飛び込みながら「箆棒《べらぼう》に温《ぬ》るいや」と云った。するとまた一人続いて乗り込んだのが「こりゃどうも……もう少し熱くなくっちゃあ」と顔をしかめながら熱いのを我慢する気色《けしき》とも見えたが、重太郎先生と顔を見合せて「やあ親方」と挨拶《あいさつ》をする。重太郎は「やあ」と云ったが、やがて「民さんはどうしたね」と聞く。「どうしたか、じゃんじゃんが好きだからね」「じゃんじゃんばかりじゃねえ……」「そうかい、あの男も腹のよくねえ男だからね。――どう云うもんか人に好かれねえ、――どう云うものだか、――どうも人が信用しねえ。職人てえものは、あんなもんじゃねえが」「そうよ。民さんなんざあ腰が低いんじゃねえ、頭《ず》が高《た》けえんだ。それだからどうも信用されねえんだね」「本当によ。あれで一《い》っぱし腕があるつもりだから、――つまり自分の損だあな」「白銀町《しろかねちょう》にも古い人が亡《な》くなってね、今じゃ桶屋《おけや》の元さんと煉瓦屋《れんがや》の大将と親方ぐれえな者だあな。こちとらあこうしてここで生れたもんだが、民さんなんざあ、どこから来たんだか分りゃしねえ」「そうよ。しかしよくあれだけになったよ」「うん。どう云うもんか人に好かれねえ。人が交際《つきあ》わねえからね」と徹頭徹尾民さんを攻撃する。
 天水桶はこのくらいにして、白い湯の方を見るとこれはまた非常な大入《おおいり》で、湯の中に人が這入《はい》ってると云わんより人の中に湯が這入ってると云う方が適当である。しかも彼等はすこぶる悠々閑々《ゆうゆうかんかん》たる物で、先刻《さっき》から這入るものはあるが出る物は一人もない。こう這入った上に、一週間もとめておいたら湯もよごれるはずだと感心してなおよく槽《おけ》の中を見渡すと、左の隅に圧《お》しつけられて苦沙弥先生が真赤《まっか》になってすくんでいる。可哀《かわい》そうに誰か路をあけて出してやればいいのにと思うのに誰も動きそうにもしなければ、主人も出ようとする気色《けしき》も見せない。ただじっとして赤くなっているばかりである。これはご苦労な事だ。なるべく二銭五厘の湯銭を活用しようと云う精神からして、かように赤くなるのだろうが、早く上がらんと湯気《ゆけ》にあがるがと主思《しゅうおも》いの吾輩は窓の棚《たな》から少なからず心配した。すると主人の一軒置いて隣りに浮いてる男が八の字を寄せながら「これはちと利《き》き過ぎるようだ、どうも背中《せなか》の方から熱い奴がじりじり湧《わ》いてくる」と暗に列席の化物に同情を求めた。「なあにこれがちょうどいい加減です。薬湯はこのくらいでないと利《き》きません。わたしの国なぞではこの倍も熱い湯へ這入ります」と自慢らしく説き立てるものがある。「一体この湯は何に利くんでしょう」と手拭を畳《たた》んで凸凹頭《でこぼこあたま》をかくした男が一同に聞いて見る。「いろいろなものに利きますよ。何でもいいてえんだからね。豪気《ごうぎ》だあね」と云ったのは瘠《や》せた黄瓜《きゅうり》のような色と形とを兼ね得たる顔の所有者である。そんなに利く湯なら、もう少しは丈夫そうになれそうなものだ。「薬を入れ立てより、三日目か四日目がちょうどいいようです。今日等《きょうなど》は這入り頃ですよ」と物知り顔に述べたのを見ると、膨《ふく》れ返った男である。これは多分|垢肥《あかぶと》りだろう。「飲んでも利きましょうか」とどこからか知らないが黄色い声を出す者がある。「冷《ひ》えた後《あと》などは一杯飲んで寝ると、奇体《きたい》に小便に起きないから、まあやって御覧なさい」と答えたのは、どの顔から出た声か分らない。
 湯槽《ゆぶね》の方はこれぐらいにして板間《いたま》を見渡すと、いるわいるわ絵にもならないアダムがずらりと並んで各《おのおの》勝手次第な姿勢で、勝手次第なところを洗っている。その中にもっとも驚ろくべきのは仰向《あおむ》けに寝て、高い明《あ》かり取《とり》を眺《なが》めているのと、腹這《はらば》いになって、溝《みぞ》の中を覗《のぞ》き込んでいる両アダムである。これはよほど閑《ひま》なアダムと見える。坊主が石壁を向いてしゃがんでいると後《うし》ろから、小坊主がしきりに肩を叩《たた》いている。これは師弟の関係上|三介《さんすけ》の代理を務《つと》めるのであろう。本当の三介もいる。風邪《かぜ》を引いたと見えて、このあついのにちゃんちゃんを着て、小判形《こばんなり》の桶《おけ》からざあと旦那の肩へ湯をあびせる。右の足を見ると親指の股に呉絽《ごろ》の垢擦《あかす》りを挟《はさ》んでいる。こちらの方では小桶《こおけ》を慾張って三つ抱え込んだ男が、隣りの人に石鹸《シャボン》を使え使えと云いながらしきりに長談議をしている。何だろうと聞いて見るとこんな事を言っていた。「鉄砲は外国から渡ったもんだね。昔は斬り合いばかりさ。外国は卑怯だからね、それであんなものが出来たんだ。どうも支那じゃねえようだ、やっぱり外国のようだ。和唐内《わとうない》の時にゃ無かったね。和唐内はやはり清和源氏さ。なんでも義経が蝦夷《えぞ》から満洲へ渡った時に、蝦夷の男で大変|学《がく》のできる人がくっ付いて行ったてえ話しだね。それでその義経のむすこが大明《たいみん》を攻めたんだが大明じゃ困るから、三代将軍へ使をよこして三千人の兵隊を借《か》してくれろと云うと、三代様《さんだいさま》がそいつを留めておいて帰さねえ。――何とか云ったっけ。――何でも何とか云う使だ。――それでその使を二年とめておいてしまいに長崎で女郎《じょろう》を見せたんだがね。その女郎に出来た子が和唐内さ。それから国へ帰って見ると大明は国賊に亡ぼされていた。……」何を云うのかさっぱり分らない。その後《うし》ろに二十五六の陰気な顔をした男が、ぼんやりして股の所を白い湯でしきりにたでている。腫物《はれもの》か何かで苦しんでいると見える。その横に年の頃は十七八で君とか僕とか生意気な事をべらべら喋舌《しゃべ》ってるのはこの近所の書生だろう。そのまた次に妙な背中《せなか》が見える。尻の中から寒竹《かんちく》を押し込んだように背骨《せぼね》の節が歴々《ありあり》と出ている。そうしてその左右に十六むさしに似たる形が四個ずつ行儀よく並んでいる。その十六むさしが赤く爛《ただ》れて周囲《まわり》に膿《うみ》をもっているのもある。こう順々に書いてくると、書く事が多過ぎて到底吾輩の手際《てぎわ》にはその一斑《いっぱん》さえ形容する事が出来ん。これは厄介な事をやり始めた者だと少々|辟易《へきえき》していると入口の方に浅黄木綿《あさぎもめん》の着物をきた七十ばかりの坊主がぬっと見《あら》われた。坊主は恭《うやうや》しくこれらの裸体の化物に一礼して「へい、どなた様も、毎日相変らずありがとう存じます。今日は少々御寒うございますから、どうぞ御緩《ごゆっ》くり――どうぞ白い湯へ出たり這入《はい》ったりして、ゆるりと御あったまり下さい。――番頭さんや、どうか湯加減をよく見て上げてな」とよどみなく述べ立てた。番頭さんは「おーい」と答えた。和唐内は「愛嬌《あいきょう》ものだね。あれでなくては商買《しょうばい》は出来ないよ」と大《おおい》に爺さんを激賞した。吾輩は突然この異《い》な爺さんに逢ってちょっと驚ろいたからこっちの記述はそのままにして、しばらく爺さんを専門に観察する事にした。爺さんはやがて今|上《あが》り立《た》ての四つばかりの男の子を見て「坊ちゃん、こちらへおいで」と手を出す。小供は大福を踏み付けたような爺さんを見て大変だと思ったか、わーっと悲鳴を揚《あ》げてなき出す。爺さんは少しく不本意の気味で「いや、御泣きか、なに? 爺さんが恐《こわ》い? いや、これはこれは」と感嘆した。仕方がないものだからたちまち機鋒《きほう》を転じて、小供の親に向った。「や、これは源さん。今日は少し寒いな。ゆうべ、近江屋《おうみや》へ這入った泥棒は何と云う馬鹿な奴じゃの。あの戸の潜《くぐ》りの所を四角に切り破っての。そうしてお前の。何も取らずに行《い》んだげな。御巡《おまわ》りさんか夜番でも見えたものであろう」と大《おおい》に泥棒の無謀を憫笑《びんしょう》したがまた一人を捉《つ》らまえて「はいはい御寒う。あなた方は、御若いから、あまりお感じにならんかの」と老人だけにただ一人寒がっている。
 しばらくは爺さんの方へ気を取られて他の化物の事は全く忘れていたのみならず、苦しそうにすくんでいた主人さえ記憶の中《うち》から消え去った時突然流しと板の間の中間で大きな声を出すものがある。見ると紛《まぎ》れもなき苦沙弥先生である。主人の声の図抜けて大いなるのと、その濁って聴き苦しいのは今日に始まった事ではないが場所が場所だけに吾輩は少からず驚ろいた。これは正《まさ》しく熱湯の中《うち》に長時間のあいだ我慢をして浸《つか》っておったため逆上《ぎゃくじょう》したに相違ないと咄嗟《とっさ》の際に吾輩は鑑定をつけた。それも単に病気の所為《せい》なら咎《とが》むる事もないが、彼は逆上しながらも充分本心を有しているに相違ない事は、何のためにこの法外の胴間声《どうまごえ》を出したかを話せばすぐわかる。彼は取るにも足らぬ生意気《なまいき》書生を相手に大人気《おとなげ》もない喧嘩を始めたのである。「もっと下がれ、おれの小桶に湯が這入《はい》っていかん」と怒鳴るのは無論主人である。物は見ようでどうでもなるものだから、この怒号をただ逆上の結果とばかり判断する必要はない。万人のうちに一人くらいは高山彦九郎《たかやまひこくろう》が山賊を叱《しっ》したようだくらいに解釈してくれるかも知れん。当人自身もそのつもりでやった芝居かも分らんが、相手が山賊をもって自《みずか》らおらん以上は予期する結果は出て来ないに極《きま》っている。書生は後《うし》ろを振り返って「僕はもとからここにいたのです」とおとなしく答えた。これは尋常の答で、ただその地を去らぬ事を示しただけが主人の思い通りにならんので、その態度と云い言語と云い、山賊として罵《ののし》り返すべきほどの事でもないのは、いかに逆上の気味の主人でも分っているはずだ。しかし主人の怒号は書生の席そのものが不平なのではない、先刻《さっき》からこの両人は少年に似合わず、いやに高慢ちきな、利《き》いた風の事ばかり併《なら》べていたので、始終それを聞かされた主人は、全くこの点に立腹したものと見える。だから先方でおとなしい挨拶をしても黙って板の間へ上がりはせん。今度は「何だ馬鹿野郎、人の桶《おけ》へ汚ない水をぴちゃぴちゃ跳《は》ねかす奴があるか」と喝《かっ》し去った。吾輩もこの小僧を少々心憎く思っていたから、この時心中にはちょっと快哉《かいさい》を呼んだが、学校教員たる主人の言動としては穏《おだや》かならぬ事と思うた。元来主人はあまり堅過ぎていかん。石炭のたき殻《がら》見たようにかさかさしてしかもいやに硬い。むかしハンニバルがアルプス山を超《こ》える時に、路の真中に当って大きな岩があって、どうしても軍隊が通行上の不便邪魔をする。そこでハンニバルはこの大きな岩へ醋《す》をかけて火を焚《た》いて、柔かにしておいて、それから鋸《のこぎり》でこの大岩を蒲鉾《かまぼこ》のように切って滞《とどこお》りなく通行をしたそうだ。主人のごとくこんな利目《ききめ》のある薬湯へ煮《う》だるほど這入《はい》っても少しも功能のない男はやはり醋をかけて火炙《ひあぶ》りにするに限ると思う。しからずんば、こんな書生が何百人出て来て、何十年かかったって主人の頑固《がんこ》は癒《なお》りっこない。この湯槽《ゆぶね》に浮いているもの、この流しにごろごろしているものは文明の人間に必要な服装を脱ぎ棄てる化物の団体であるから、無論常規常道をもって律する訳にはいかん。何をしたって構わない。肺の所に胃が陣取って、和唐内が清和源氏になって、民さんが不信用でもよかろう。しかし一たび流しを出て板の間に上がれば、もう化物ではない。普通の人類の生息《せいそく》する娑婆《しゃば》へ出たのだ、文明に必要なる着物をきるのだ。従って人間らしい行動をとらなければならんはずである。今主人が踏んでいるところは敷居である。流しと板の間の境にある敷居の上であって、当人はこれから歓言愉色《かんげんゆしょく》、円転滑脱《えんてんかつだつ》の世界に逆戻りをしようと云う間際《まぎわ》である。その間際ですらかくのごとく頑固《がんこ》であるなら、この頑固は本人にとって牢《ろう》として抜くべからざる病気に相違ない。病気なら容易に矯正《きょうせい》する事は出来まい。この病気を癒《なお》す方法は愚考によるとただ一つある。校長に依頼して免職して貰う事|即《すなわ》ちこれなり。免職になれば融通の利《き》かぬ主人の事だからきっと路頭に迷うに極《きま》ってる。路頭に迷う結果はのたれ死にをしなければならない。換言すると免職は主人にとって死の遠因になるのである。主人は好んで病気をして喜こんでいるけれど、死ぬのは大嫌《だいきらい》である。死なない程度において病気と云う一種の贅沢《ぜいたく》がしていたいのである。それだからそんなに病気をしていると殺すぞと嚇《おど》かせば臆病なる主人の事だからびりびりと悸《ふる》え上がるに相違ない。この悸え上がる時に病気は奇麗に落ちるだろうと思う。それでも落ちなければそれまでの事さ。
 いかに馬鹿でも病気でも主人に変りはない。一飯《いっぱん》君恩を重んずと云う詩人もある事だから猫だって主人の身の上を思わない事はあるまい。気の毒だと云う念が胸一杯になったため、ついそちらに気が取られて、流しの方の観察を怠《おこ》たっていると、突然白い湯槽《ゆぶね》の方面に向って口々に罵《ののし》る声が聞える。ここにも喧嘩が起ったのかと振り向くと、狭い柘榴口《ざくろぐち》に一寸《いっすん》の余地もないくらいに化物が取りついて、毛のある脛と、毛のない股と入り乱れて動いている。折から初秋《はつあき》の日は暮るるになんなんとして流しの上は天井まで一面の湯気が立て籠《こ》める。かの化物の犇《ひしめ》く様《さま》がその間から朦朧《もうろう》と見える。熱い熱いと云う声が吾輩の耳を貫《つら》ぬいて左右へ抜けるように頭の中で乱れ合う。その声には黄なのも、青いのも、赤いのも、黒いのもあるが互に畳《かさ》なりかかって一種名状すべからざる音響を浴場内に漲《みなぎ》らす。ただ混雑と迷乱とを形容するに適した声と云うのみで、ほかには何の役にも立たない声である。吾輩は茫然《ぼうぜん》としてこの光景に魅入《みい》られたばかり立ちすくんでいた。やがてわーわーと云う声が混乱の極度に達して、これよりはもう一歩も進めぬと云う点まで張り詰められた時、突然無茶苦茶に押し寄せ押し返している群《むれ》の中から一大長漢がぬっと立ち上がった。彼の身《み》の丈《たけ》を見ると他《ほか》の先生方よりはたしかに三寸くらいは高い。のみならず顔から髯《ひげ》が生《は》えているのか髯の中に顔が同居しているのか分らない赤つらを反《そ》り返して、日盛りに破《わ》れ鐘《がね》をつくような声を出して「うめろうめろ、熱い熱い」と叫ぶ。この声とこの顔ばかりは、かの紛々《ふんぷん》と縺《もつ》れ合う群衆の上に高く傑出して、その瞬間には浴場全体がこの男一人になったと思わるるほどである。超人だ。ニーチェのいわゆる超人だ。魔中の大王だ。化物の頭梁《とうりょう》だ。と思って見ていると湯槽《ゆぶね》の後《うし》ろでおーいと答えたものがある。おやとまたもそちらに眸《ひとみ》をそらすと、暗憺《あんたん》として物色も出来ぬ中に、例のちゃんちゃん姿の三介《さんすけ》が砕けよと一塊《ひとかたま》りの石炭を竈《かまど》の中に投げ入れるのが見えた。竈の蓋《ふた》をくぐって、この塊りがぱちぱちと鳴るときに、三介の半面がぱっと明るくなる。同時に三介の後《うし》ろにある煉瓦《れんが》の壁が暗《やみ》を通して燃えるごとく光った。吾輩は少々|物凄《ものすご》くなったから早々《そうそう》窓から飛び下りて家《いえ》に帰る。帰りながらも考えた。羽織を脱ぎ、猿股を脱ぎ、袴《はかま》を脱いで平等になろうと力《つと》める赤裸々の中には、また赤裸々の豪傑が出て来て他の群小を圧倒してしまう。平等はいくらはだかになったって得られるものではない。
 帰って見ると天下は太平なもので、主人は湯上がりの顔をテラテラ光らして晩餐《ばんさん》を食っている。吾輩が椽側《えんがわ》から上がるのを見て、のんきな猫だなあ、今頃どこをあるいているんだろうと云った。膳の上を見ると、銭《ぜに》のない癖に二三品|御菜《おかず》をならべている。そのうちに肴《さかな》の焼いたのが一|疋《ぴき》ある。これは何と称する肴か知らんが、何でも昨日《きのう》あたり御台場《おだいば》近辺でやられたに相違ない。肴は丈夫なものだと説明しておいたが、いくら丈夫でもこう焼かれたり煮られたりしてはたまらん。多病にして残喘《ざんぜん》を保《たも》つ方がよほど結構だ。こう考えて膳の傍《そば》に坐って、隙《すき》があったら何か頂戴しようと、見るごとく見ざるごとく装《よそお》っていた。こんな装い方を知らないものはとうていうまい肴は食えないと諦《あきら》めなければいけない。主人は肴をちょっと突っついたが、うまくないと云う顔付をして箸《はし》を置いた。正面に控《ひか》えたる妻君はこれまた無言のまま箸の上下《じょうげ》に運動する様子、主人の両顎《りょうがく》の離合開闔《りごうかいこう》の具合を熱心に研究している。
「おい、その猫の頭をちょっと撲《ぶ》って見ろ」と主人は突然細君に請求した。
「撲てば、どうするんですか」
「どうしてもいいからちょっと撲って見ろ」
 こうですかと細君は平手《ひらて》で吾輩の頭をちょっと敲《たた》く。痛くも何ともない。
「鳴かんじゃないか」
「ええ」
「もう一|返《ぺん》やって見ろ」
「何返やったって同じ事じゃありませんか」と細君また平手でぽかと参《まい》る。やはり何ともないから、じっとしていた。しかしその何のためたるやは智慮深き吾輩には頓《とん》と了解し難い。これが了解出来れば、どうかこうか方法もあろうがただ撲って見ろだから、撲つ細君も困るし、撲たれる吾輩も困る。主人は二度まで思い通りにならんので、少々|焦《じ》れ気味《ぎみ》で「おい、ちょっと鳴くようにぶって見ろ」と云った。
 細君は面倒な顔付で「鳴かして何になさるんですか」と問いながら、またぴしゃりとおいでになった。こう先方の目的がわかれば訳はない、鳴いてさえやれば主人を満足させる事は出来るのだ。主人はかくのごとく愚物《ぐぶつ》だから厭《いや》になる。鳴かせるためなら、ためと早く云えば二返も三返も余計な手数《てすう》はしなくてもすむし、吾輩も一度で放免になる事を二度も三度も繰り返えされる必要はないのだ。ただ打《ぶ》って見ろと云う命令は、打つ事それ自身を目的とする場合のほかに用うべきものでない。打つのは向うの事、鳴くのはこっちの事だ。鳴く事を始めから予期して懸って、ただ打つと云う命令のうちに、こっちの随意たるべき鳴く事さえ含まってるように考えるのは失敬千万だ。他人の人格を重んぜんと云うものだ。猫を馬鹿にしている。主人の蛇蝎《だかつ》のごとく嫌う金田君ならやりそうな事だが、赤裸々をもって誇る主人としてはすこぶる卑劣である。しかし実のところ主人はこれほどけちな男ではないのである。だから主人のこの命令は狡猾《こうかつ》の極《きょく》に出《い》でたのではない。つまり智慧《ちえ》の足りないところから湧《わ》いた孑孑《ぼうふら》のようなものと思惟《しい》する。飯を食えば腹が張るに極《き》まっている。切れば血が出るに極っている。殺せば死ぬに極まっている。それだから打《ぶ》てば鳴くに極っていると速断をやったんだろう。しかしそれはお気の毒だが少し論理に合わない。その格で行くと川へ落ちれば必ず死ぬ事になる。天麩羅《てんぷら》を食えば必ず下痢《げり》する事になる。月給をもらえば必ず出勤する事になる。書物を読めば必ずえらくなる事になる。必ずそうなっては少し困る人が出来てくる。打てば必ずなかなければならんとなると吾輩は迷惑である。目白の時の鐘と同一に見傚《みな》されては猫と生れた甲斐《かい》がない。まず腹の中でこれだけ主人を凹《へこ》ましておいて、しかる後にゃーと注文通り鳴いてやった。
 すると主人は細君に向って「今鳴いた、にゃあ[#「にゃあ」に傍点]と云う声は感投詞か、副詞か何だか知ってるか」と聞いた。
 細君はあまり突然な問なので、何にも云わない。実を云うと吾輩もこれは洗湯の逆上がまださめないためだろうと思ったくらいだ。元来この主人は近所合壁《きんじょがっぺき》有名な変人で現にある人はたしかに神経病だとまで断言したくらいである。ところが主人の自信はえらいもので、おれが神経病じゃない、世の中の奴が神経病だと頑張《がんば》っている。近辺のものが主人を犬々と呼ぶと、主人は公平を維持するため必要だとか号して彼等を豚々《ぶたぶた》と呼ぶ。実際主人はどこまでも公平を維持するつもりらしい。困ったものだ。こう云う男だからこんな奇問を細君に対《むか》って呈出するのも、主人に取っては朝食前《あさめしまえ》の小事件かも知れないが、聞く方から云わせるとちょっと神経病に近い人の云いそうな事だ。だから細君は煙《けむ》に捲《ま》かれた気味で何とも云わない。吾輩は無論何とも答えようがない。すると主人はたちまち大きな声で
「おい」と呼びかけた。
 細君は吃驚《びっくり》して「はい」と答えた。
「そのはい[#「はい」に傍点]は感投詞か副詞か、どっちだ」
「どっちですか、そんな馬鹿気た事はどうでもいいじゃありませんか」
「いいものか、これが現に国語家の頭脳を支配している大問題だ」
「あらまあ、猫の鳴き声がですか、いやな事ねえ。だって、猫の鳴き声は日本語じゃあないじゃありませんか」
「それだからさ。それがむずかしい問題なんだよ。比較研究と云うんだ」
「そう」と細君は利口だから、こんな馬鹿な問題には関係しない。「それで、どっちだか分ったんですか」
「重要な問題だからそう急には分らんさ」と例の肴《さかな》をむしゃむしゃ食う。ついでにその隣にある豚と芋《いも》のにころばしを食う。「これは豚だな」「ええ豚でござんす」「ふん」と大軽蔑《だいけいべつ》の調子をもって飲み込んだ。「酒をもう一杯飲もう」と杯《さかずき》を出す。
「今夜はなかなかあがるのね。もう大分《だいぶ》赤くなっていらっしゃいますよ」
「飲むとも――御前世界で一番長い字を知ってるか」
「ええ、前《さき》の関白太政大臣でしょう」
「それは名前だ。長い字を知ってるか」
「字って横文字ですか」
「うん」
「知らないわ、――御酒はもういいでしょう、これで御飯になさいな、ねえ」
「いや、まだ飲む。一番長い字を教えてやろうか」
「ええ。そうしたら御飯ですよ」
「Archaiomelesidonophrunicherata と云う字だ」
「出鱈目《でたらめ》でしょう」
「出鱈目なものか、希臘語《ギリシャご》だ」
「何という字なの、日本語にすれば」
「意味はしらん。ただ綴《つづ》りだけ知ってるんだ。長く書くと六寸三分くらいにかける」
 他人なら酒の上で云うべき事を、正気で云っているところがすこぶる奇観である。もっとも今夜に限って酒を無暗《むやみ》にのむ。平生なら猪口《ちょこ》に二杯ときめているのを、もう四杯飲んだ。二杯でも随分赤くなるところを倍飲んだのだから顔が焼火箸《やけひばし》のようにほてって、さも苦しそうだ。それでもまだやめない。「もう一杯」と出す。細君はあまりの事に
「もう御よしになったら、いいでしょう。苦しいばかりですわ」と苦々《にがにが》しい顔をする。
「なに苦しくってもこれから少し稽古するんだ。大町桂月《おおまちけいげつ》が飲めと云った」
「桂月って何です」さすがの桂月も細君に逢っては一文《いちもん》の価値もない。
「桂月は現今一流の批評家だ。それが飲めと云うのだからいいに極《きま》っているさ」
「馬鹿をおっしゃい。桂月だって、梅月だって、苦しい思をして酒を飲めなんて、余計な事ですわ」
「酒ばかりじゃない。交際をして、道楽をして、旅行をしろといった」
「なおわるいじゃありませんか。そんな人が第一流の批評家なの。まああきれた。妻子のあるものに道楽をすすめるなんて……」
「道楽もいいさ。桂月が勧めなくっても金さえあればやるかも知れない」
「なくって仕合せだわ。今から道楽なんぞ始められちゃあ大変ですよ」
「大変だと云うならよしてやるから、その代りもう少し夫《おっと》を大事にして、そうして晩に、もっと御馳走を食わせろ」
「これが精一杯のところですよ」
「そうかしらん。それじゃ道楽は追って金が這入《はい》り次第やる事にして、今夜はこれでやめよう」と飯茶椀を出す。何でも茶漬を三ぜん食ったようだ。吾輩はその夜《よ》豚肉|三片《みきれ》と塩焼の頭を頂戴した。

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