2008年11月7日金曜日

 例によって金田邸へ忍び込む。
 例によって[#「例によって」に傍点]とは今更《いまさら》解釈する必要もない。しばしば[#「しばしば」に傍点]を自乗《じじょう》したほどの度合を示す語《ことば》である。一度やった事は二度やりたいもので、二度試みた事は三度試みたいのは人間にのみ限らるる好奇心ではない、猫といえどもこの心理的特権を有してこの世界に生れ出でたものと認定していただかねばならぬ。三度以上繰返す時始めて習慣なる語を冠せられて、この行為が生活上の必要と進化するのもまた人間と相違はない。何のために、かくまで足繁《あししげ》く金田邸へ通うのかと不審を起すならその前にちょっと人間に反問したい事がある。なぜ人間は口から煙を吸い込んで鼻から吐き出すのであるか、腹の足《た》しにも血の道の薬にもならないものを、恥《はず》かし気《げ》もなく吐呑《とどん》して憚《はば》からざる以上は、吾輩が金田に出入《しゅつにゅう》するのを、あまり大きな声で咎《とが》め立《だ》てをして貰いたくない。金田邸は吾輩の煙草《たばこ》である。
 忍び込む[#「忍び込む」に傍点]と云うと語弊がある、何だか泥棒か間男《まおとこ》のようで聞き苦しい。吾輩が金田邸へ行くのは、招待こそ受けないが、決して鰹《かつお》の切身《きりみ》をちょろまかしたり、眼鼻が顔の中心に痙攣的《けいれんてき》に密着している狆《ちん》君などと密談するためではない。――何探偵?――もってのほかの事である。およそ世の中に何が賤《いや》しい家業《かぎょう》だと云って探偵と高利貸ほど下等な職はないと思っている。なるほど寒月君のために猫にあるまじきほどの義侠心《ぎきょうしん》を起して、一度《ひとたび》は金田家の動静を余所《よそ》ながら窺《うかが》った事はあるが、それはただの一遍で、その後は決して猫の良心に恥ずるような陋劣《ろうれつ》な振舞を致した事はない。――そんなら、なぜ忍び込む[#「忍び込む」に傍点]と云《い》うような胡乱《うろん》な文字を使用した?――さあ、それがすこぶる意味のある事だて。元来吾輩の考によると大空《たいくう》は万物を覆《おお》うため大地は万物を載《の》せるために出来ている――いかに執拗《しつよう》な議論を好む人間でもこの事実を否定する訳には行くまい。さてこの大空大地《たいくうだいち》を製造するために彼等人類はどのくらいの労力を費《つい》やしているかと云うと尺寸《せきすん》の手伝もしておらぬではないか。自分が製造しておらぬものを自分の所有と極《き》める法はなかろう。自分の所有と極めても差《さ》し支《つか》えないが他の出入《しゅつにゅう》を禁ずる理由はあるまい。この茫々《ぼうぼう》たる大地を、小賢《こざか》しくも垣を囲《めぐ》らし棒杭《ぼうぐい》を立てて某々所有地などと劃《かく》し限るのはあたかもかの蒼天《そうてん》に縄張《なわばり》して、この部分は我《われ》の天、あの部分は彼《かれ》の天と届け出るような者だ。もし土地を切り刻んで一坪いくらの所有権を売買するなら我等が呼吸する空気を一尺立方に割って切売をしても善い訳である。空気の切売が出来ず、空の縄張が不当なら地面の私有も不合理ではないか。如是観《にょぜかん》によりて、如是法《にょぜほう》を信じている吾輩はそれだからどこへでも這入《はい》って行く。もっとも行きたくない処へは行かぬが、志す方角へは東西南北の差別は入らぬ、平気な顔をして、のそのそと参る。金田ごときものに遠慮をする訳がない。――しかし猫の悲しさは力ずくでは到底《とうてい》人間には叶《かな》わない。強勢は権利なりとの格言さえあるこの浮世に存在する以上は、いかにこっちに道理があっても猫の議論は通らない。無理に通そうとすると車屋の黒のごとく不意に肴屋《さかなや》の天秤棒《てんびんぼう》を喰《くら》う恐れがある。理はこっちにあるが権力は向うにあると云う場合に、理を曲げて一も二もなく屈従するか、または権力の目を掠《かす》めて我理を貫くかと云えば、吾輩は無論後者を択《えら》ぶのである。天秤棒は避けざるべからざるが故に、忍[#「忍」に傍点]ばざるべからず。人の邸内へは這入り込んで差支《さしつか》えなき故込[#「込」に傍点]まざるを得ず。この故に吾輩は金田邸へ忍び込む[#「忍び込む」に傍点]のである。
 忍び込む度《ど》が重なるにつけ、探偵をする気はないが自然金田君一家の事情が見たくもない吾輩の眼に映じて覚えたくもない吾輩の脳裏《のうり》に印象を留《とど》むるに至るのはやむを得ない。鼻子夫人が顔を洗うたんびに念を入れて鼻だけ拭く事や、富子令嬢が阿倍川餅《あべかわもち》を無暗《むやみ》に召し上がらるる事や、それから金田君自身が――金田君は妻君に似合わず鼻の低い男である。単に鼻のみではない、顔全体が低い。小供の時分喧嘩をして、餓鬼大将《がきだいしょう》のために頸筋《くびすじ》を捉《つら》まえられて、うんと精一杯に土塀《どべい》へ圧《お》し付けられた時の顔が四十年後の今日《こんにち》まで、因果《いんが》をなしておりはせぬかと怪《あやし》まるるくらい平坦な顔である。至極《しごく》穏かで危険のない顔には相違ないが、何となく変化に乏しい。いくら怒《おこ》っても平《たいら》かな顔である。――その金田君が鮪《まぐろ》の刺身《さしみ》を食って自分で自分の禿頭《はげあたま》をぴちゃぴちゃ叩《たた》く事や、それから顔が低いばかりでなく背が低いので、無暗に高い帽子と高い下駄を穿《は》く事や、それを車夫がおかしがって書生に話す事や、書生がなるほど君の観察は機敏だと感心する事や、――一々数え切れない。
 近頃は勝手口の横を庭へ通り抜けて、築山《つきやま》の陰から向うを見渡して障子が立て切って物静かであるなと見極めがつくと、徐々《そろそろ》上り込む。もし人声が賑《にぎや》かであるか、座敷から見透《みす》かさるる恐れがあると思えば池を東へ廻って雪隠《せついん》の横から知らぬ間《ま》に椽《えん》の下へ出る。悪い事をした覚《おぼえ》はないから何も隠れる事も、恐れる事もないのだが、そこが人間と云う無法者に逢っては不運と諦《あきら》めるより仕方がないので、もし世間が熊坂長範《くまさかちょうはん》ばかりになったらいかなる盛徳の君子もやはり吾輩のような態度に出ずるであろう。金田君は堂々たる実業家であるから固《もと》より熊坂長範のように五尺三寸を振り廻す気遣《きづかい》はあるまいが、承《うけたまわ》る処によれば人を人と思わぬ病気があるそうである。人を人と思わないくらいなら猫を猫とも思うまい。して見れば猫たるものはいかなる盛徳の猫でも彼の邸内で決して油断は出来ぬ訳《わけ》である。しかしその油断の出来ぬところが吾輩にはちょっと面白いので、吾輩がかくまでに金田家の門を出入《しゅつにゅう》するのも、ただこの危険が冒《おか》して見たいばかりかも知れぬ。それは追って篤《とく》と考えた上、猫の脳裏《のうり》を残りなく解剖し得た時改めて御吹聴《ごふいちょう》仕《つかまつ》ろう。
 今日はどんな模様だなと、例の築山の芝生《しばふ》の上に顎《あご》を押しつけて前面を見渡すと十五畳の客間を弥生《やよい》の春に明け放って、中には金田夫婦と一人の来客との御話《おはなし》最中《さいちゅう》である。生憎《あいにく》鼻子夫人の鼻がこっちを向いて池越しに吾輩の額の上を正面から睨《にら》め付けている。鼻に睨まれたのは生れて今日が始めてである。金田君は幸い横顔を向けて客と相対しているから例の平坦な部分は半分かくれて見えぬが、その代り鼻の在所《ありか》が判然しない。ただ胡麻塩《ごましお》色の口髯《くちひげ》が好い加減な所から乱雑に茂生《もせい》しているので、あの上に孔《あな》が二つあるはずだと結論だけは苦もなく出来る。春風《はるかぜ》もああ云う滑《なめら》かな顔ばかり吹いていたら定めて楽《らく》だろうと、ついでながら想像を逞《たくま》しゅうして見た。御客さんは三人の中《うち》で一番普通な容貌《ようぼう》を有している。ただし普通なだけに、これぞと取り立てて紹介するに足るような雑作《ぞうさく》は一つもない。普通と云うと結構なようだが、普通の極《きょく》平凡の堂に上《のぼ》り、庸俗の室に入《い》ったのはむしろ憫然《びんぜん》の至りだ。かかる無意味な面構《つらがまえ》を有すべき宿命を帯びて明治の昭代《しょうだい》に生れて来たのは誰だろう。例のごとく椽の下まで行ってその談話を承わらなくては分らぬ。
「……それで妻《さい》がわざわざあの男の所まで出掛けて行って容子《ようす》を聞いたんだがね……」と金田君は例のごとく横風《おうふう》な言葉使である。横風ではあるが毫《ごう》も峻嶮《しゅんけん》なところがない。言語も彼の顔面のごとく平板尨大《へいばんぼうだい》である。
「なるほどあの男が水島さんを教えた事がございますので――なるほど、よい御思い付きで――なるほど」となるほどずくめのは御客さんである。
「ところが何だか要領を得んので」
「ええ苦沙弥《くしゃみ》じゃ要領を得ない訳《わけ》で――あの男は私がいっしょに下宿をしている時分から実に煮《に》え切らない――そりゃ御困りでございましたろう」と御客さんは鼻子夫人の方を向く。
「困るの、困らないのってあなた、私《わた》しゃこの年になるまで人のうちへ行って、あんな不取扱《ふとりあつかい》を受けた事はありゃしません」と鼻子は例によって鼻嵐を吹く。
「何か無礼な事でも申しましたか、昔《むか》しから頑固《がんこ》な性分で――何しろ十年一日のごとくリードル専門の教師をしているのでも大体御分りになりましょう」と御客さんは体《てい》よく調子を合せている。
「いや御話しにもならんくらいで、妻《さい》が何か聞くとまるで剣もほろろの挨拶だそうで……」
「それは怪《け》しからん訳で――一体少し学問をしているととかく慢心が萌《きざ》すもので、その上貧乏をすると負け惜しみが出ますから――いえ世の中には随分無法な奴がおりますよ。自分の働きのないのにゃ気が付かないで、無暗《むやみ》に財産のあるものに喰って掛るなんてえのが――まるで彼等の財産でも捲《ま》き上げたような気分ですから驚きますよ、あははは」と御客さんは大恐悦の体《てい》である。
「いや、まことに言語同断《ごんごどうだん》で、ああ云うのは必竟《ひっきょう》世間見ずの我儘《わがまま》から起るのだから、ちっと懲《こ》らしめのためにいじめてやるが好かろうと思って、少し当ってやったよ」
「なるほどそれでは大分《だいぶ》答えましたろう、全く本人のためにもなる事ですから」と御客さんはいかなる当り方[#「当り方」に傍点]か承《うけたまわ》らぬ先からすでに金田君に同意している。
「ところが鈴木さん、まあなんて頑固な男なんでしょう。学校へ出ても福地《ふくち》さんや、津木《つき》さんには口も利《き》かないんだそうです。恐れ入って黙っているのかと思ったらこの間は罪もない、宅《たく》の書生をステッキを持って追っ懸けたってんです――三十|面《づら》さげて、よく、まあ、そんな馬鹿な真似が出来たもんじゃありませんか、全くやけ[#「やけ」に傍点]で少し気が変になってるんですよ」
「へえどうしてまたそんな乱暴な事をやったんで……」とこれには、さすがの御客さんも少し不審を起したと見える。
「なあに、ただあの男の前を何とか云って通ったんだそうです、すると、いきなり、ステッキを持って跣足《はだし》で飛び出して来たんだそうです。よしんば、ちっとやそっと、何か云ったって小供じゃありませんか、髯面《ひげづら》の大僧《おおぞう》の癖にしかも教師じゃありませんか」
「さよう教師ですからな」と御客さんが云うと、金田君も「教師だからな」と云う。教師たる以上はいかなる侮辱を受けても木像のようにおとなしくしておらねばならぬとはこの三人の期せずして一致した論点と見える。
「それに、あの迷亭って男はよっぽどな酔興人《すいきょうじん》ですね。役にも立たない嘘《うそ》八百を並べ立てて。私《わた》しゃあんな変梃《へんてこ》な人にゃ初めて逢いましたよ」
「ああ迷亭ですか、あいかわらず法螺《ほら》を吹くと見えますね。やはり苦沙弥の所で御逢いになったんですか。あれに掛っちゃたまりません。あれも昔《むか》し自炊の仲間でしたがあんまり人を馬鹿にするものですから能《よ》く喧嘩をしましたよ」
「誰だって怒りまさあね、あんなじゃ。そりゃ嘘をつくのも宜《よ》うござんしょうさ、ね、義理が悪るいとか、ばつを合せなくっちゃあならないとか――そんな時には誰しも心にない事を云うもんでさあ。しかしあの男のは吐《つ》かなくってすむのに矢鱈《やたら》に吐くんだから始末に了《お》えないじゃありませんか。何が欲しくって、あんな出鱈目《でたらめ》を――よくまあ、しらじらしく云えると思いますよ」
「ごもっともで、全く道楽からくる嘘だから困ります」
「せっかくあなた真面目に聞きに行った水島の事も滅茶滅茶《めちゃめちゃ》になってしまいました。私《わたし》ゃ剛腹《ごうはら》で忌々《いまいま》しくって――それでも義理は義理でさあ、人のうちへ物を聞きに行って知らん顔の半兵衛もあんまりですから、後《あと》で車夫にビールを一ダース持たせてやったんです。ところがあなたどうでしょう。こんなものを受取る理由がない、持って帰れって云うんだそうで。いえ御礼だから、どうか御取り下さいって車夫が云ったら――悪《に》くいじゃあありませんか、俺はジャムは毎日|舐《な》めるがビールのような苦《にが》い者は飲んだ事がないって、ふいと奥へ這入《はい》ってしまったって――言い草に事を欠いて、まあどうでしょう、失礼じゃありませんか」
「そりゃ、ひどい」と御客さんも今度は本気に苛《ひど》いと感じたらしい。
「そこで今日わざわざ君を招いたのだがね」としばらく途切れて金田君の声が聞える。「そんな馬鹿者は陰から、からかってさえいればすむようなものの、少々それでも困る事があるじゃて……」と鮪《まぐろ》の刺身を食う時のごとく禿頭《はげあたま》をぴちゃぴちゃ叩《たた》く。もっとも吾輩は椽《えん》の下にいるから実際叩いたか叩かないか見えようはずがないが、この禿頭の音は近来|大分《だいぶ》聞馴れている。比丘尼《びくに》が木魚の音を聞き分けるごとく、椽の下からでも音さえたしかであればすぐ禿頭だなと出所《しゅっしょ》を鑑定する事が出来る。「そこでちょっと君を煩《わずら》わしたいと思ってな……」
「私に出来ます事なら何でも御遠慮なくどうか――今度東京勤務と云う事になりましたのも全くいろいろ御心配を掛けた結果にほかならん訳でありますから」と御客さんは快よく金田君の依頼を承諾する。この口調《くちょう》で見るとこの御客さんはやはり金田君の世話になる人と見える。いやだんだん事件が面白く発展してくるな、今日はあまり天気が宜《い》いので、来る気もなしに来たのであるが、こう云う好材料を得《え》ようとは全く思い掛《が》けなんだ。御彼岸《おひがん》にお寺詣《てらまい》りをして偶然|方丈《ほうじょう》で牡丹餅《ぼたもち》の御馳走になるような者だ。金田君はどんな事を客人に依頼するかなと、椽の下から耳を澄して聞いている。
「あの苦沙弥と云う変物《へんぶつ》が、どう云う訳か水島に入《い》れ智慧《ぢえ》をするので、あの金田の娘を貰っては行《い》かんなどとほのめかすそうだ――なあ鼻子そうだな」
「ほのめかすどころじゃないんです。あんな奴の娘を貰う馬鹿がどこの国にあるものか、寒月君決して貰っちゃいかんよって云うんです」
「あんな奴とは何だ失敬な、そんな乱暴な事を云ったのか」
「云ったどころじゃありません、ちゃんと車屋の神さんが知らせに来てくれたんです」
「鈴木君どうだい、御聞の通りの次第さ、随分厄介だろうが?」
「困りますね、ほかの事と違って、こう云う事には他人が妄《みだ》りに容喙《ようかい》するべきはずの者ではありませんからな。そのくらいな事はいかな苦沙弥でも心得ているはずですが。一体どうした訳なんでしょう」
「それでの、君は学生時代から苦沙弥と同宿をしていて、今はとにかく、昔は親密な間柄であったそうだから御依頼するのだが、君当人に逢ってな、よく利害を諭《さと》して見てくれんか。何か怒《おこ》っているかも知れんが、怒るのは向《むこう》が悪《わ》るいからで、先方がおとなしくしてさえいれば一身上の便宜も充分計ってやるし、気に障《さ》わるような事もやめてやる。しかし向が向ならこっちもこっちと云う気になるからな――つまりそんな我《が》を張るのは当人の損だからな」
「ええ全くおっしゃる通り愚《ぐ》な抵抗をするのは本人の損になるばかりで何の益もない事ですから、善く申し聞けましょう」
「それから娘はいろいろと申し込もある事だから、必ず水島にやると極《き》める訳にも行かんが、だんだん聞いて見ると学問も人物も悪くもないようだから、もし当人が勉強して近い内に博士にでもなったらあるいはもらう事が出来るかも知れんくらいはそれとなくほのめかしても構わん」
「そう云ってやったら当人も励《はげ》みになって勉強する事でしょう。宜《よろ》しゅうございます」
「それから、あの妙な事だが――水島にも似合わん事だと思うが、あの変物《へんぶつ》の苦沙弥を先生先生と云って苦沙弥の云う事は大抵聞く様子だから困る。なにそりゃ何も水島に限る訳では無論ないのだから苦沙弥が何と云って邪魔をしようと、わしの方は別に差支《さしつか》えもせんが……」
「水島さんが可哀そうですからね」と鼻子夫人が口を出す。
「水島と云う人には逢った事もございませんが、とにかくこちらと御縁組が出来れば生涯《しょうがい》の幸福で、本人は無論異存はないのでしょう」
「ええ水島さんは貰いたがっているんですが、苦沙弥だの迷亭だのって変り者が何だとか、かんだとか云うものですから」
「そりゃ、善くない事で、相当の教育のあるものにも似合わん所作《しょさ》ですな。よく私が苦沙弥の所へ参って談じましょう」
「ああ、どうか、御面倒でも、一つ願いたい。それから実は水島の事も苦沙弥が一番|詳《くわ》しいのだがせんだって妻《さい》が行った時は今の始末で碌々《ろくろく》聞く事も出来なかった訳だから、君から今一応本人の性行学才等をよく聞いて貰いたいて」
「かしこまりました。今日は土曜ですからこれから廻ったら、もう帰っておりましょう。近頃はどこに住んでおりますか知らん」
「ここの前を右へ突き当って、左へ一丁ばかり行くと崩れかかった黒塀のあるうちです」と鼻子が教える。
「それじゃ、つい近所ですな。訳はありません。帰りにちょっと寄って見ましょう。なあに、大体分りましょう標札《ひょうさつ》を見れば」
「標札はあるときと、ないときとありますよ。名刺を御饌粒《ごぜんつぶ》で門へ貼《は》り付けるのでしょう。雨がふると剥《は》がれてしまいましょう。すると御天気の日にまた貼り付けるのです。だから標札は当《あて》にゃなりませんよ。あんな面倒臭い事をするよりせめて木札《きふだ》でも懸けたらよさそうなもんですがねえ。ほんとうにどこまでも気の知れない人ですよ」
「どうも驚きますな。しかし崩れた黒塀のうちと聞いたら大概分るでしょう」
「ええあんな汚ないうちは町内に一軒しかないから、すぐ分りますよ。あ、そうそうそれで分らなければ、好い事がある。何でも屋根に草が生《は》えたうちを探して行けば間違っこありませんよ」
「よほど特色のある家《いえ》ですなアハハハハ」
 鈴木君が御光来になる前に帰らないと、少し都合が悪い。談話もこれだけ聞けば大丈夫沢山である。椽《えん》の下を伝わって雪隠《せついん》を西へ廻って築山《つきやま》の陰から往来へ出て、急ぎ足で屋根に草の生えているうちへ帰って来て何喰わぬ顔をして座敷の椽へ廻る。
 主人は椽側へ白毛布《しろげっと》を敷いて、腹這《はらばい》になって麗《うらら》かな春日《はるび》に甲羅《こうら》を干している。太陽の光線は存外公平なもので屋根にペンペン草の目標のある陋屋《ろうおく》でも、金田君の客間のごとく陽気に暖かそうであるが、気の毒な事には毛布《けっと》だけが春らしくない。製造元では白のつもりで織り出して、唐物屋《とうぶつや》でも白の気で売り捌《さば》いたのみならず、主人も白と云う注文で買って来たのであるが――何しろ十二三年以前の事だから白の時代はとくに通り越してただ今は濃灰色《のうかいしょく》なる変色の時期に遭遇《そうぐう》しつつある。この時期を経過して他の暗黒色に化けるまで毛布の命が続くかどうだかは、疑問である。今でもすでに万遍なく擦《す》り切れて、竪横《たてよこ》の筋は明かに読まれるくらいだから、毛布と称するのはもはや僭上《せんじょう》の沙汰であって、毛の字は省《はぶ》いて単にット[#「ット」に傍点]とでも申すのが適当である。しかし主人の考えでは一年持ち、二年持ち、五年持ち十年持った以上は生涯《しょうがい》持たねばならぬと思っているらしい。随分|呑気《のんき》な事である。さてその因縁《いんねん》のある毛布《けっと》の上へ前《ぜん》申す通り腹這になって何をしているかと思うと両手で出張った顋《あご》を支えて、右手の指の股に巻煙草《まきたばこ》を挟んでいる。ただそれだけである。もっとも彼がフケ[#「フケ」に傍点]だらけの頭の裏《うち》には宇宙の大真理が火の車のごとく廻転しつつあるかも知れないが、外部から拝見したところでは、そんな事とは夢にも思えない。
 煙草の火はだんだん吸口の方へ逼《せま》って、一寸《いっすん》ばかり燃え尽した灰の棒がぱたりと毛布の上に落つるのも構わず主人は一生懸命に煙草から立ち上《のぼ》る煙の行末を見詰めている。その煙りは春風に浮きつ沈みつ、流れる輪を幾重《いくえ》にも描いて、紫深き細君の洗髪《あらいがみ》の根本へ吹き寄せつつある。――おや、細君の事を話しておくはずだった。忘れていた。
 細君は主人に尻《しり》を向けて――なに失礼な細君だ? 別に失礼な事はないさ。礼も非礼も相互の解釈次第でどうでもなる事だ。主人は平気で細君の尻のところへ頬杖《ほおづえ》を突き、細君は平気で主人の顔の先へ荘厳《そうごん》なる尻を据《す》えたまでの事で無礼も糸瓜《へちま》もないのである。御両人は結婚後一ヵ年も立たぬ間《ま》に礼儀作法などと窮屈な境遇を脱却せられた超然的夫婦である。――さてかくのごとく主人に尻を向けた細君はどう云う了見《りょうけん》か、今日の天気に乗じて、尺に余る緑の黒髪を、麩海苔《ふのり》と生卵でゴシゴシ洗濯せられた者と見えて癖のない奴を、見よがしに肩から背へ振りかけて、無言のまま小供の袖なしを熱心に縫っている。実はその洗髪を乾かすために唐縮緬《とうちりめん》の布団《ふとん》と針箱を椽側《えんがわ》へ出して、恭《うやうや》しく主人に尻を向けたのである。あるいは主人の方で尻のある見当《けんとう》へ顔を持って来たのかも知れない。そこで先刻御話しをした煙草《たばこ》の煙りが、豊かに靡《なび》く黒髪の間に流れ流れて、時ならぬ陽炎《かげろう》の燃えるところを主人は余念もなく眺めている。しかしながら煙は固《もと》より一所《いっしょ》に停《とど》まるものではない、その性質として上へ上へと立ち登るのだから主人の眼もこの煙りの髪毛《かみげ》と縺《もつ》れ合う奇観を落ちなく見ようとすれば、是非共眼を動かさなければならない。主人はまず腰の辺から観察を始めて徐々《じょじょ》と背中を伝《つた》って、肩から頸筋《くびすじ》に掛ったが、それを通り過ぎてようよう脳天に達した時、覚えずあっと驚いた。――主人が偕老同穴《かいろうどうけつ》を契《ちぎ》った夫人の脳天の真中には真丸《まんまる》な大きな禿《はげ》がある。しかもその禿が暖かい日光を反射して、今や時を得顔に輝いている。思わざる辺《へん》にこの不思議な大発見をなした時の主人の眼は眩《まば》ゆい中に充分の驚きを示して、烈しい光線で瞳孔《どうこう》の開くのも構わず一心不乱に見つめている。主人がこの禿を見た時、第一彼の脳裏《のうり》に浮んだのはかの家《いえ》伝来の仏壇に幾世となく飾り付けられたる御灯明皿《おとうみょうざら》である。彼の一家《いっけ》は真宗で、真宗では仏壇に身分不相応な金を掛けるのが古例である。主人は幼少の時その家の倉の中に、薄暗く飾り付けられたる金箔《きんぱく》厚き厨子《ずし》があって、その厨子の中にはいつでも真鍮《しんちゅう》の灯明皿がぶら下って、その灯明皿には昼でもぼんやりした灯《ひ》がついていた事を記憶している。周囲が暗い中にこの灯明皿が比較的明瞭に輝やいていたので小供心にこの灯を何遍となく見た時の印象が細君の禿に喚《よ》び起されて突然飛び出したものであろう。灯明皿は一分立たぬ間《ま》に消えた。この度《たび》は観音様《かんのんさま》の鳩の事を思い出す。観音様の鳩と細君の禿とは何等の関係もないようであるが、主人の頭では二つの間に密接な聯想がある。同じく小供の時分に浅草へ行くと必ず鳩に豆を買ってやった。豆は一皿が文久《ぶんきゅう》二つで、赤い土器《かわらけ》へ這入《はい》っていた。その土器《かわらけ》が、色と云い大《おおき》さと云いこの禿によく似ている。
「なるほど似ているな」と主人が、さも感心したらしく云うと「何がです」と細君は見向きもしない。
「何だって、御前の頭にゃ大きな禿があるぜ。知ってるか」
「ええ」と細君は依然として仕事の手をやめずに答える。別段露見を恐れた様子もない。超然たる模範妻君である。
「嫁にくるときからあるのか、結婚後新たに出来たのか」と主人が聞く。もし嫁にくる前から禿げているなら欺《だま》されたのであると口へは出さないが心の中《うち》で思う。
「いつ出来たんだか覚えちゃいませんわ、禿なんざどうだって宜《い》いじゃありませんか」と大《おおい》に悟ったものである。
「どうだって宜いって、自分の頭じゃないか」と主人は少々怒気を帯びている。
「自分の頭だから、どうだって宜《い》いんだわ」と云ったが、さすが少しは気になると見えて、右の手を頭に乗せて、くるくる禿を撫《な》でて見る。「おや大分《だいぶ》大きくなった事、こんなじゃ無いと思っていた」と言ったところをもって見ると、年に合わして禿があまり大き過ぎると云う事をようやく自覚したらしい。
「女は髷《まげ》に結《ゆ》うと、ここが釣れますから誰でも禿げるんですわ」と少しく弁護しだす。
「そんな速度で、みんな禿げたら、四十くらいになれば、から薬缶《やかん》ばかり出来なければならん。そりゃ病気に違いない。伝染するかも知れん、今のうち早く甘木さんに見て貰え」と主人はしきりに自分の頭を撫《な》で廻して見る。
「そんなに人の事をおっしゃるが、あなただって鼻の孔《あな》へ白髪《しらが》が生《は》えてるじゃありませんか。禿が伝染するなら白髪だって伝染しますわ」と細君少々ぷりぷりする。
「鼻の中の白髪は見えんから害はないが、脳天が――ことに若い女の脳天がそんなに禿げちゃ見苦しい。不具《かたわ》だ」
「不具《かたわ》なら、なぜ御貰いになったのです。御自分が好きで貰っておいて不具だなんて……」
「知らなかったからさ。全く今日《きょう》まで知らなかったんだ。そんなに威張るなら、なぜ嫁に来る時頭を見せなかったんだ」
「馬鹿な事を! どこの国に頭の試験をして及第したら嫁にくるなんて、ものが在るもんですか」
「禿はまあ我慢もするが、御前は背《せ》いが人並|外《はず》れて低い。はなはだ見苦しくていかん」
「背いは見ればすぐ分るじゃありませんか、背《せい》の低いのは最初から承知で御貰いになったんじゃありませんか」
「それは承知さ、承知には相違ないがまだ延びるかと思ったから貰ったのさ」
「廿《はたち》にもなって背《せ》いが延びるなんて――あなたもよっぽど人を馬鹿になさるのね」と細君は袖《そで》なしを抛《ほう》り出して主人の方に捩《ね》じ向く。返答次第ではその分にはすまさんと云う権幕《けんまく》である。
「廿《はたち》になったって背いが延びてならんと云う法はあるまい。嫁に来てから滋養分でも食わしたら、少しは延びる見込みがあると思ったんだ」と真面目な顔をして妙な理窟《りくつ》を述べていると門口《かどぐち》のベルが勢《いきおい》よく鳴り立てて頼むと云う大きな声がする。いよいよ鈴木君がペンペン草を目的《めあて》に苦沙弥《くしゃみ》先生の臥竜窟《がりょうくつ》を尋ねあてたと見える。
 細君は喧嘩を後日に譲って、倉皇《そうこう》針箱と袖なしを抱《かか》えて茶の間へ逃げ込む。主人は鼠色の毛布《けっと》を丸めて書斎へ投げ込む。やがて下女が持って来た名刺を見て、主人はちょっと驚ろいたような顔付であったが、こちらへ御通し申してと言い棄てて、名刺を握ったまま後架《こうか》へ這入《はい》った。何のために後架へ急に這入ったか一向要領を得ん、何のために鈴木藤十郎《すずきとうじゅうろう》君の名刺を後架まで持って行ったのかなおさら説明に苦しむ。とにかく迷惑なのは臭い所へ随行を命ぜられた名刺君である。
 下女が更紗《さらさ》の座布団を床《とこ》の前へ直して、どうぞこれへと引き下がった、跡《あと》で、鈴木君は一応室内を見廻わす。床に掛けた花開《はなひらく》万国春《ばんこくのはる》とある木菴《もくあん》の贋物《にせもの》や、京製の安青磁《やすせいじ》に活《い》けた彼岸桜《ひがんざくら》などを一々順番に点検したあとで、ふと下女の勧めた布団の上を見るといつの間《ま》にか一|疋《ぴき》の猫がすまして坐っている。申すまでもなくそれはかく申す吾輩である。この時鈴木君の胸のうちにちょっとの間顔色にも出ぬほどの風波が起った。この布団は疑いもなく鈴木君のために敷かれたものである。自分のために敷かれた布団の上に自分が乗らぬ先から、断りもなく妙な動物が平然と蹲踞《そんきょ》している。これが鈴木君の心の平均を破る第一の条件である。もしこの布団が勧められたまま、主《ぬし》なくして春風の吹くに任せてあったなら、鈴木君はわざと謙遜《けんそん》の意を表《ひょう》して、主人がさあどうぞと云うまでは堅い畳の上で我慢していたかも知れない。しかし早晩自分の所有すべき布団の上に挨拶もなく乗ったものは誰であろう。人間なら譲る事もあろうが猫とは怪《け》しからん。乗り手が猫であると云うのが一段と不愉快を感ぜしめる。これが鈴木君の心の平均を破る第二の条件である。最後にその猫の態度がもっとも癪《しゃく》に障る。少しは気の毒そうにでもしている事か、乗る権利もない布団の上に、傲然《ごうぜん》と構えて、丸い無愛嬌《ぶあいきょう》な眼をぱちつかせて、御前は誰だいと云わぬばかりに鈴木君の顔を見つめている。これが平均を破壊する第三の条件である。これほど不平があるなら、吾輩の頸根《くびね》っこを捉《とら》えて引きずり卸したら宜《よ》さそうなものだが、鈴木君はだまって見ている。堂々たる人間が猫に恐れて手出しをせぬと云う事は有ろうはずがないのに、なぜ早く吾輩を処分して自分の不平を洩《も》らさないかと云うと、これは全く鈴木君が一個の人間として自己の体面を維持する自重心の故であると察せらるる。もし腕力に訴えたなら三尺の童子も吾輩を自由に上下し得るであろうが、体面を重んずる点より考えるといかに金田君の股肱《ここう》たる鈴木藤十郎その人もこの二尺四方の真中に鎮座まします猫大明神を如何《いかん》ともする事が出来ぬのである。いかに人の見ていぬ場所でも、猫と座席争いをしたとあってはいささか人間の威厳に関する。真面目に猫を相手にして曲直《きょくちょく》を争うのはいかにも大人気《おとなげ》ない。滑稽である。この不名誉を避けるためには多少の不便は忍ばねばならぬ。しかし忍ばねばならぬだけそれだけ猫に対する憎悪《ぞうお》の念は増す訳であるから、鈴木君は時々吾輩の顔を見ては苦《にが》い顔をする。吾輩は鈴木君の不平な顔を拝見するのが面白いから滑稽の念を抑《おさ》えてなるべく何喰わぬ顔をしている。
 吾輩と鈴木君の間に、かくのごとき無言劇が行われつつある間に主人は衣紋《えもん》をつくろって後架《こうか》から出て来て「やあ」と席に着いたが、手に持っていた名刺の影さえ見えぬところをもって見ると、鈴木藤十郎君の名前は臭い所へ無期徒刑に処せられたものと見える。名刺こそ飛んだ厄運《やくうん》に際会したものだと思う間《ま》もなく、主人はこの野郎と吾輩の襟《えり》がみを攫《つか》んでえいとばかりに椽側《えんがわ》へ擲《たた》きつけた。
「さあ敷きたまえ。珍らしいな。いつ東京へ出て来た」と主人は旧友に向って布団を勧める。鈴木君はちょっとこれを裏返した上で、それへ坐る。
「ついまだ忙がしいものだから報知もしなかったが、実はこの間から東京の本社の方へ帰るようになってね……」
「それは結構だ、大分《だいぶ》長く逢わなかったな。君が田舎《いなか》へ行ってから、始めてじゃないか」
「うん、もう十年近くになるね。なにその後時々東京へは出て来る事もあるんだが、つい用事が多いもんだから、いつでも失敬するような訳さ。悪《わ》るく思ってくれたもうな。会社の方は君の職業とは違って随分忙がしいんだから」
「十年立つうちには大分違うもんだな」と主人は鈴木君を見上げたり見下ろしたりしている。鈴木君は頭を美麗《きれい》に分けて、英国仕立のトウィードを着て、派手な襟飾《えりかざ》りをして、胸に金鎖りさえピカつかせている体裁、どうしても苦沙弥《くしゃみ》君の旧友とは思えない。
「うん、こんな物までぶら下げなくちゃ、ならんようになってね」と鈴木君はしきりに金鎖りを気にして見せる。
「そりゃ本ものかい」と主人は無作法《ぶさほう》な質問をかける。
「十八金だよ」と鈴木君は笑いながら答えたが「君も大分年を取ったね。たしか小供があるはずだったが一人かい」
「いいや」
「二人?」
「いいや」
「まだあるのか、じゃ三人か」
「うん三人ある。この先|幾人《いくにん》出来るか分らん」
「相変らず気楽な事を云ってるぜ。一番大きいのはいくつになるかね、もうよっぽどだろう」
「うん、いくつか能《よ》く知らんが大方《おおかた》六つか、七つかだろう」
「ハハハ教師は呑気《のんき》でいいな。僕も教員にでもなれば善かった」
「なって見ろ、三日で嫌《いや》になるから」
「そうかな、何だか上品で、気楽で、閑暇《ひま》があって、すきな勉強が出来て、よさそうじゃないか。実業家も悪くもないが我々のうちは駄目だ。実業家になるならずっと上にならなくっちゃいかん。下の方になるとやはりつまらん御世辞を振り撒《ま》いたり、好かん猪口《ちょこ》をいただきに出たり随分|愚《ぐ》なもんだよ」
「僕は実業家は学校時代から大嫌だ。金さえ取れれば何でもする、昔で云えば素町人《すちょうにん》だからな」と実業家を前に控《ひか》えて太平楽を並べる。
「まさか――そうばかりも云えんがね、少しは下品なところもあるのさ、とにかく金《かね》と情死《しんじゅう》をする覚悟でなければやり通せないから――ところがその金と云う奴が曲者《くせもの》で、――今もある実業家の所へ行って聞いて来たんだが、金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないと云うのさ――義理をかく[#「かく」に傍点]、人情をかく[#「かく」に傍点]、恥をかく[#「かく」に傍点]これで三角になるそうだ面白いじゃないかアハハハハ」
「誰だそんな馬鹿は」
「馬鹿じゃない、なかなか利口な男なんだよ、実業界でちょっと有名だがね、君知らんかしら、ついこの先の横丁にいるんだが」
「金田か? 何《な》んだあんな奴」
「大変怒ってるね。なあに、そりゃ、ほんの冗談《じょうだん》だろうがね、そのくらいにせんと金は溜らんと云う喩《たとえ》さ。君のようにそう真面目に解釈しちゃ困る」
「三角術は冗談でもいいが、あすこの女房の鼻はなんだ。君行ったんなら見て来たろう、あの鼻を」
「細君か、細君はなかなかさばけた人だ」
「鼻だよ、大きな鼻の事を云ってるんだ。せんだって僕はあの鼻について俳体詩《はいたいし》を作ったがね」
「何だい俳体詩と云うのは」
「俳体詩を知らないのか、君も随分時勢に暗いな」
「ああ僕のように忙がしいと文学などは到底《とうてい》駄目さ。それに以前からあまり数奇《すき》でない方だから」
「君シャーレマンの鼻の恰好《かっこう》を知ってるか」
「アハハハハ随分気楽だな。知らんよ」
「エルリントンは部下のものから鼻々と異名《いみょう》をつけられていた。君知ってるか」
「鼻の事ばかり気にして、どうしたんだい。好いじゃないか鼻なんか丸くても尖《と》んがってても」
「決してそうでない。君パスカルの事を知ってるか」
「また知ってるかか、まるで試験を受けに来たようなものだ。パスカルがどうしたんだい」
「パスカルがこんな事を云っている」
「どんな事を」
「もしクレオパトラの鼻が少し短かかったならば世界の表面に大変化を来《きた》したろうと」
「なるほど」
「それだから君のようにそう無雑作《むぞうさ》に鼻を馬鹿にしてはいかん」
「まあいいさ、これから大事にするから。そりゃそうとして、今日来たのは、少し君に用事があって来たんだがね――あの元《もと》君の教えたとか云う、水島――ええ水島ええちょっと思い出せない。――そら君の所へ始終来ると云うじゃないか」
「寒月《かんげつ》か」
「そうそう寒月寒月。あの人の事についてちょっと聞きたい事があって来たんだがね」
「結婚事件じゃないか」
「まあ多少それに類似の事さ。今日金田へ行ったら……」
「この間鼻が自分で来た」
「そうか。そうだって、細君もそう云っていたよ。苦沙弥さんに、よく伺おうと思って上ったら、生憎《あいにく》迷亭が来ていて茶々を入れて何が何だか分らなくしてしまったって」
「あんな鼻をつけて来るから悪るいや」
「いえ君の事を云うんじゃないよ。あの迷亭君がおったもんだから、そう立ち入った事を聞く訳にも行かなかったので残念だったから、もう一遍僕に行ってよく聞いて来てくれないかって頼まれたものだからね。僕も今までこんな世話はした事はないが、もし当人同士が嫌《い》やでないなら中へ立って纏《まと》めるのも、決して悪い事はないからね――それでやって来たのさ」
「御苦労様」と主人は冷淡に答えたが、腹の内では当人同士[#「当人同士」に傍点]と云う語《ことば》を聞いて、どう云う訳か分らんが、ちょっと心を動かしたのである。蒸《む》し熱い夏の夜に一縷《いちる》の冷風《れいふう》が袖口《そでぐち》を潜《くぐ》ったような気分になる。元来この主人はぶっ切ら棒の、頑固《がんこ》光沢《つや》消しを旨《むね》として製造された男であるが、さればと云って冷酷不人情な文明の産物とは自《おのず》からその撰《せん》を異《こと》にしている。彼が何《なん》ぞと云うと、むかっ腹をたててぷんぷんするのでも這裏《しゃり》の消息は会得《えとく》できる。先日鼻と喧嘩をしたのは鼻が気に食わぬからで鼻の娘には何の罪もない話しである。実業家は嫌いだから、実業家の片割れなる金田某も嫌《きらい》に相違ないがこれも娘その人とは没交渉の沙汰と云わねばならぬ。娘には恩も恨《うら》みもなくて、寒月は自分が実の弟よりも愛している門下生である。もし鈴木君の云うごとく、当人同志が好いた仲なら、間接にもこれを妨害するのは君子のなすべき所作《しょさ》でない。――苦沙弥先生はこれでも自分を君子と思っている。――もし当人同志が好いているなら――しかしそれが問題である。この事件に対して自己の態度を改めるには、まずその真相から確めなければならん。
「君その娘は寒月の所へ来たがってるのか。金田や鼻はどうでも構わんが、娘自身の意向はどうなんだ」
「そりゃ、その――何だね――何でも――え、来たがってるんだろうじゃないか」鈴木君の挨拶は少々|曖昧《あいまい》である。実は寒月君の事だけ聞いて復命さえすればいいつもりで、御嬢さんの意向までは確かめて来なかったのである。従って円転|滑脱《かつだつ》の鈴木君もちょっと狼狽《ろうばい》の気味に見える。
「だろう[#「だろう」に傍点]た判然しない言葉だ」と主人は何事によらず、正面から、どやし付けないと気がすまない。
「いや、これゃちょっと僕の云いようがわるかった。令嬢の方でもたしかに意《い》があるんだよ。いえ全くだよ――え?――細君が僕にそう云ったよ。何でも時々は寒月君の悪口を云う事もあるそうだがね」
「あの娘がか」
「ああ」
「怪《け》しからん奴だ、悪口を云うなんて。第一それじゃ寒月に意《い》がないんじゃないか」
「そこがさ、世の中は妙なもので、自分の好いている人の悪口などは殊更《ことさら》云って見る事もあるからね」
「そんな愚《ぐ》な奴がどこの国にいるものか」と主人は斯様《かよう》な人情の機微に立ち入った事を云われても頓《とん》と感じがない。
「その愚な奴が随分世の中にゃあるから仕方がない。現に金田の妻君もそう解釈しているのさ。戸惑《とまど》いをした糸瓜《へちま》のようだなんて、時々寒月さんの悪口を云いますから、よっぽど心の中《うち》では思ってるに相違ありませんと」
 主人はこの不可思議な解釈を聞いて、あまり思い掛けないものだから、眼を丸くして、返答もせず、鈴木君の顔を、大道易者《だいどうえきしゃ》のように眤《じっ》と見つめている。鈴木君はこいつ、この様子では、ことによるとやり損なうなと疳《かん》づいたと見えて、主人にも判断の出来そうな方面へと話頭を移す。
「君考えても分るじゃないか、あれだけの財産があってあれだけの器量なら、どこへだって相応の家《うち》へやれるだろうじゃないか。寒月だってえらい[#「えらい」に傍点]かも知れんが身分から云や――いや身分と云っちゃ失礼かも知れない。――財産と云う点から云や、まあ、だれが見たって釣り合わんのだからね。それを僕がわざわざ出張するくらい両親が気を揉《も》んでるのは本人が寒月君に意があるからの事じゃあないか」と鈴木君はなかなかうまい理窟をつけて説明を与える。今度は主人にも納得が出来たらしいのでようやく安心したが、こんなところにまごまごしているとまた吶喊《とっかん》を喰う危険があるから、早く話しの歩を進めて、一刻も早く使命を完《まっと》うする方が万全の策と心付いた。
「それでね。今云う通りの訳であるから、先方で云うには何も金銭や財産はいらんからその代り当人に附属した資格が欲しい――資格と云うと、まあ肩書だね、――博士になったらやってもいいなんて威張ってる次第じゃない――誤解しちゃいかん。せんだって細君の来た時は迷亭君がいて妙な事ばかり云うものだから――いえ君が悪いのじゃない。細君も君の事を御世辞のない正直ないい方《かた》だと賞《ほ》めていたよ。全く迷亭君がわるかったんだろう。――それでさ本人が博士にでもなってくれれば先方でも世間へ対して肩身が広い、面目《めんぼく》があると云うんだがね、どうだろう、近々《きんきん》の内水島君は博士論文でも呈出して、博士の学位を受けるような運びには行くまいか。なあに――金田だけなら博士も学士もいらんのさ、ただ世間と云う者があるとね、そう手軽にも行かんからな」
 こう云われて見ると、先方で博士を請求するのも、あながち無理でもないように思われて来る。無理ではないように思われて来れば、鈴木君の依頼通りにしてやりたくなる。主人を活《い》かすのも殺すのも鈴木君の意のままである。なるほど主人は単純で正直な男だ。
「それじゃ、今度寒月が来たら、博士論文をかくように僕から勧めて見よう。しかし当人が金田の娘を貰うつもりかどうだか、それからまず問い正《ただ》して見なくちゃいかんからな」
「問い正すなんて、君そんな角張《かどば》った事をして物が纏《まと》まるものじゃない。やっぱり普通の談話の際にそれとなく気を引いて見るのが一番近道だよ」
「気を引いて見る?」
「うん、気を引くと云うと語弊があるかも知れん。――なに気を引かんでもね。話しをしていると自然分るもんだよ」
「君にゃ分るかも知れんが、僕にゃ判然と聞かん事は分らん」
「分らなけりゃ、まあ好いさ。しかし迷亭君見たように余計な茶々を入れて打《ぶ》ち壊《こ》わすのは善くないと思う。仮令《たとい》勧めないまでも、こんな事は本人の随意にすべきはずのものだからね。今度寒月君が来たらなるべくどうか邪魔をしないようにしてくれ給え。――いえ君の事じゃない、あの迷亭君の事さ。あの男の口にかかると到底助かりっこないんだから」と主人の代理に迷亭の悪口をきいていると、噂《うわさ》をすれば陰の喩《たとえ》に洩《も》れず迷亭先生例のごとく勝手口から飄然《ひょうぜん》と春風《しゅんぷう》に乗じて舞い込んで来る。
「いやー珍客だね。僕のような狎客《こうかく》になると苦沙弥《くしゃみ》はとかく粗略にしたがっていかん。何でも苦沙弥のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか」と藤村《ふじむら》の羊羹《ようかん》を無雑作《むぞうさ》に頬張《ほおば》る。鈴木君はもじもじしている。主人はにやにやしている。迷亭は口をもがもがさしている。吾輩はこの瞬時の光景を椽側《えんがわ》から拝見して無言劇と云うものは優に成立し得ると思った。禅家《ぜんけ》で無言の問答をやるのが以心伝心であるなら、この無言の芝居も明かに以心伝心の幕である。すこぶる短かいけれどもすこぶる鋭どい幕である。
「君は一生|旅烏《たびがらす》かと思ってたら、いつの間《ま》にか舞い戻ったね。長生《ながいき》はしたいもんだな。どんな僥倖《ぎょうこう》に廻《めぐ》り合わんとも限らんからね」と迷亭は鈴木君に対しても主人に対するごとく毫《ごう》も遠慮と云う事を知らぬ。いかに自炊の仲間でも十年も逢わなければ、何となく気のおけるものだが迷亭君に限って、そんな素振《そぶり》も見えぬのは、えらいのだか馬鹿なのかちょっと見当がつかぬ。
「可哀そうに、そんなに馬鹿にしたものでもない」と鈴木君は当らず障《さわ》らずの返事はしたが、何となく落ちつきかねて、例の金鎖を神経的にいじっている。
「君電気鉄道へ乗ったか」と主人は突然鈴木君に対して奇問を発する。
「今日は諸君からひやかされに来たようなものだ。なんぼ田舎者だって――これでも街鉄《がいてつ》を六十株持ってるよ」
「そりゃ馬鹿に出来ないな。僕は八百八十八株半持っていたが、惜しい事に大方《おおかた》虫が喰ってしまって、今じゃ半株ばかりしかない。もう少し早く君が東京へ出てくれば、虫の喰わないところを十株ばかりやるところだったが惜しい事をした」
「相変らず口が悪るい。しかし冗談は冗談として、ああ云う株は持ってて損はないよ、年々《ねんねん》高くなるばかりだから」
「そうだ仮令《たとい》半株だって千年も持ってるうちにゃ倉が三つくらい建つからな。君も僕もその辺にぬかりはない当世の才子だが、そこへ行くと苦沙弥などは憐れなものだ。株と云えば大根の兄弟分くらいに考えているんだから」とまた羊羹《ようかん》をつまんで主人の方を見ると、主人も迷亭の食《く》い気《け》が伝染して自《おの》ずから菓子皿の方へ手が出る。世の中では万事積極的のものが人から真似らるる権利を有している。
「株などはどうでも構わんが、僕は曾呂崎《そろさき》に一度でいいから電車へ乗らしてやりたかった」と主人は喰い欠けた羊羹の歯痕《はあと》を撫然《ぶぜん》として眺める。
「曾呂崎が電車へ乗ったら、乗るたんびに品川まで行ってしまうは、それよりやっぱり天然居士《てんねんこじ》で沢庵石《たくあんいし》へ彫《ほ》り付けられてる方が無事でいい」
「曾呂崎と云えば死んだそうだな。気の毒だねえ、いい頭の男だったが惜しい事をした」と鈴木君が云うと、迷亭は直《ただ》ちに引き受けて
「頭は善かったが、飯を焚《た》く事は一番下手だったぜ。曾呂崎の当番の時には、僕あいつでも外出をして蕎麦《そば》で凌《しの》いでいた」
「ほんとに曾呂崎の焚いた飯は焦《こ》げくさくって心《しん》があって僕も弱った。御負けに御菜《おかず》に必ず豆腐をなまで食わせるんだから、冷たくて食われやせん」と鈴木君も十年前の不平を記憶の底から喚《よ》び起す。
「苦沙弥はあの時代から曾呂崎の親友で毎晩いっしょに汁粉《しるこ》を食いに出たが、その祟《たた》りで今じゃ慢性胃弱になって苦しんでいるんだ。実を云うと苦沙弥の方が汁粉の数を余計食ってるから曾呂崎[#「曾呂崎」は底本では「曾兄崎」]より先へ死んで宜《い》い訳なんだ」
「そんな論理がどこの国にあるものか。俺の汁粉より君は運動と号して、毎晩|竹刀《しない》を持って裏の卵塔婆《らんとうば》へ出て、石塔を叩《たた》いてるところを坊主に見つかって剣突《けんつく》を食ったじゃないか」と主人も負けぬ気になって迷亭の旧悪を曝《あば》く。
「アハハハそうそう坊主が仏様の頭を叩いては安眠の妨害になるからよしてくれって言ったっけ。しかし僕のは竹刀だが、この鈴木将軍のは手暴《てあら》だぜ。石塔と相撲をとって大小三個ばかり転がしてしまったんだから」
「あの時の坊主の怒り方は実に烈しかった。是非元のように起せと云うから人足を傭《やと》うまで待ってくれと云ったら人足じゃいかん懺悔《ざんげ》の意を表するためにあなたが自身で起さなくては仏の意に背《そむ》くと云うんだからね」
「その時の君の風采《ふうさい》はなかったぜ、金巾《かなきん》のしゃつに越中褌《えっちゅうふんどし》で雨上りの水溜りの中でうんうん唸《うな》って……」
「それを君がすました顔で写生するんだから苛《ひど》い。僕はあまり腹を立てた事のない男だが、あの時ばかりは失敬だと心《しん》から思ったよ。あの時の君の言草をまだ覚えているが君は知ってるか」
「十年前の言草なんか誰が覚えているものか、しかしあの石塔に帰泉院殿《きせんいんでん》黄鶴大居士《こうかくだいこじ》安永五年|辰《たつ》正月と彫《ほ》ってあったのだけはいまだに記憶している。あの石塔は古雅に出来ていたよ。引き越す時に盗んで行きたかったくらいだ。実に美学上の原理に叶《かな》って、ゴシック趣味な石塔だった」と迷亭はまた好い加減な美学を振り廻す。
「そりゃいいが、君の言草がさ。こうだぜ――吾輩は美学を専攻するつもりだから天地間《てんちかん》の面白い出来事はなるべく写生しておいて将来の参考に供さなければならん、気の毒だの、可哀相《かわいそう》だのと云う私情は学問に忠実なる吾輩ごときものの口にすべきところでないと平気で云うのだろう。僕もあんまりな不人情な男だと思ったから泥だらけの手で君の写生帖を引き裂いてしまった」
「僕の有望な画才が頓挫《とんざ》して一向《いっこう》振わなくなったのも全くあの時からだ。君に機鋒《きほう》を折られたのだね。僕は君に恨《うらみ》がある」
「馬鹿にしちゃいけない。こっちが恨めしいくらいだ」
「迷亭はあの時分から法螺吹《ほらふき》だったな」と主人は羊羹《ようかん》を食い了《おわ》って再び二人の話の中に割り込んで来る。
「約束なんか履行《りこう》した事がない。それで詰問を受けると決して詫《わ》びた事がない何とか蚊《か》とか云う。あの寺の境内に百日紅《さるすべり》が咲いていた時分、この百日紅が散るまでに美学原論と云う著述をすると云うから、駄目だ、到底出来る気遣《きづかい》はないと云ったのさ。すると迷亭の答えに僕はこう見えても見掛けに寄らぬ意志の強い男である、そんなに疑うなら賭《かけ》をしようと云うから僕は真面目に受けて何でも神田の西洋料理を奢《おご》りっこかなにかに極《き》めた。きっと書物なんか書く気遣はないと思ったから賭をしたようなものの内心は少々恐ろしかった。僕に西洋料理なんか奢る金はないんだからな。ところが先生|一向《いっこう》稿を起す景色《けしき》がない。七日《なぬか》立っても二十日《はつか》立っても一枚も書かない。いよいよ百日紅が散って一輪の花もなくなっても当人平気でいるから、いよいよ西洋料理に有りついたなと思って契約履行を逼《せま》ると迷亭すまして取り合わない」
「また何とか理窟《りくつ》をつけたのかね」と鈴木君が相の手を入れる。
「うん、実にずうずうしい男だ。吾輩はほかに能はないが意志だけは決して君方に負けはせんと剛情を張るのさ」
「一枚も書かんのにか」と今度は迷亭君自身が質問をする。
「無論さ、その時君はこう云ったぜ。吾輩は意志の一点においてはあえて何人《なんぴと》にも一歩も譲らん。しかし残念な事には記憶が人一倍無い。美学原論を著わそうとする意志は充分あったのだがその意志を君に発表した翌日から忘れてしまった。それだから百日紅の散るまでに著書が出来なかったのは記憶の罪で意志の罪ではない。意志の罪でない以上は西洋料理などを奢る理由がないと威張っているのさ」
「なるほど迷亭君一流の特色を発揮して面白い」と鈴木君はなぜだか面白がっている。迷亭のおらぬ時の語気とはよほど違っている。これが利口な人の特色かも知れない。
「何が面白いものか」と主人は今でも怒《おこ》っている様子である。
「それは御気の毒様、それだからその埋合《うめあわ》せをするために孔雀《くじゃく》の舌なんかを金と太鼓で探しているじゃないか。まあそう怒《おこ》らずに待っているさ。しかし著書と云えば君、今日は一大珍報を齎《もた》らして来たんだよ」
「君はくるたびに珍報を齎らす男だから油断が出来ん」
「ところが今日の珍報は真の珍報さ。正札付一厘も引けなしの珍報さ。君寒月が博士論文の稿を起したのを知っているか。寒月はあんな妙に見識張った男だから博士論文なんて無趣味な労力はやるまいと思ったら、あれでやっぱり色気があるからおかしいじゃないか。君あの鼻に是非通知してやるがいい、この頃は団栗博士《どんぐりはかせ》の夢でも見ているかも知れない」
 鈴木君は寒月の名を聞いて、話してはいけぬ話してはいけぬと顋《あご》と眼で主人に合図する。主人には一向《いっこう》意味が通じない。さっき鈴木君に逢って説法を受けた時は金田の娘の事ばかりが気の毒になったが、今迷亭から鼻々と云われるとまた先日喧嘩をした事を思い出す。思い出すと滑稽でもあり、また少々は悪《にく》らしくもなる。しかし寒月が博士論文を草しかけたのは何よりの御見《おみ》やげで、こればかりは迷亭先生自賛のごとくまずまず近来の珍報である。啻《ただ》に珍報のみならず、嬉しい快よい珍報である。金田の娘を貰おうが貰うまいがそんな事はまずどうでもよい。とにかく寒月の博士になるのは結構である。自分のように出来損いの木像は仏師屋の隅で虫が喰うまで白木《しらき》のまま燻《くすぶ》っていても遺憾《いかん》はないが、これは旨《うま》く仕上がったと思う彫刻には一日も早く箔《はく》を塗ってやりたい。
「本当に論文を書きかけたのか」と鈴木君の合図はそっち除《の》けにして、熱心に聞く。
「よく人の云う事を疑ぐる男だ。――もっとも問題は団栗《どんぐり》だか首縊《くびくく》りの力学だか確《しか》と分らんがね。とにかく寒月の事だから鼻の恐縮するようなものに違いない」
 さっきから迷亭が鼻々と無遠慮に云うのを聞くたんびに鈴木君は不安の様子をする。迷亭は少しも気が付かないから平気なものである。
「その後鼻についてまた研究をしたが、この頃トリストラム・シャンデーの中に鼻論《はなろん》があるのを発見した。金田の鼻などもスターンに見せたら善い材料になったろうに残念な事だ。鼻名《びめい》を千載《せんざい》に垂れる資格は充分ありながら、あのままで朽《く》ち果つるとは不憫千万《ふびんせんばん》だ。今度ここへ来たら美学上の参考のために写生してやろう」と相変らず口から出任《でまか》せに喋舌《しゃべ》り立てる。
「しかしあの娘は寒月の所へ来たいのだそうだ」と主人が今鈴木君から聞いた通りを述べると、鈴木君はこれは迷惑だと云う顔付をしてしきりに主人に目くばせをするが、主人は不導体のごとく一向《いっこう》電気に感染しない。
「ちょっと乙《おつ》だな、あんな者の子でも恋をするところが、しかし大した恋じゃなかろう、大方|鼻恋《はなごい》くらいなところだぜ」
「鼻恋でも寒月が貰えばいいが」
「貰えばいいがって、君は先日大反対だったじゃないか。今日はいやに軟化しているぜ」
「軟化はせん、僕は決して軟化はせんしかし……」
「しかしどうか[#「どうか」に傍点]したんだろう。ねえ鈴木、君も実業家の末席《ばっせき》を汚《けが》す一人だから参考のために言って聞かせるがね。あの金田某なる者さ。あの某なるものの息女などを天下の秀才水島寒月の令夫人と崇《あが》め奉るのは、少々|提灯《ちょうちん》と釣鐘と云う次第で、我々|朋友《ほうゆう》たる者が冷々《れいれい》黙過する訳に行かん事だと思うんだが、たとい実業家の君でもこれには異存はあるまい」
「相変らず元気がいいね。結構だ。君は十年前と容子《ようす》が少しも変っていないからえらい」と鈴木君は柳に受けて、胡麻化《ごまか》そうとする。
「えらいと褒《ほ》めるなら、もう少し博学なところを御目にかけるがね。昔《むか》しの希臘人《ギリシャじん》は非常に体育を重んじたものであらゆる競技に貴重なる懸賞を出して百方奨励の策を講じたものだ。しかるに不思議な事には学者の智識[#「智識」に傍点]に対してのみは何等の褒美《ほうび》も与えたと云う記録がなかったので、今日《こんにち》まで実は大《おおい》に怪しんでいたところさ」
「なるほど少し妙だね」と鈴木君はどこまでも調子を合せる。
「しかるについ両三日前に至って、美学研究の際ふとその理由を発見したので多年の疑団《ぎだん》は一度に氷解。漆桶《しっつう》を抜くがごとく痛快なる悟りを得て歓天喜地《かんてんきち》の至境に達したのさ」
 あまり迷亭の言葉が仰山《ぎょうさん》なので、さすが御上手者《おじょうずもの》の鈴木君も、こりゃ手に合わないと云う顔付をする。主人はまた始まったなと云わぬばかりに、象牙《ぞうげ》の箸《はし》で菓子皿の縁《ふち》をかんかん叩いて俯《う》つ向《む》いている。迷亭だけは大得意で弁じつづける。
「そこでこの矛盾なる現象の説明を明記して、暗黒の淵《ふち》から吾人の疑を千載《せんざい》の下《もと》に救い出してくれた者は誰だと思う。学問あって以来の学者と称せらるる彼《か》の希臘《ギリシャ》の哲人、逍遥派《しょうようは》の元祖アリストートルその人である。彼の説明に曰《いわ》くさ――おい菓子皿などを叩かんで謹聴していなくちゃいかん。――彼等希臘人が競技において得るところの賞与は彼等が演ずる技芸その物より貴重なものである。それ故に褒美《ほうび》にもなり、奨励の具ともなる。しかし智識その物に至ってはどうである。もし智識に対する報酬として何物をか与えんとするならば智識以上の価値あるものを与えざるべからず。しかし智識以上の珍宝が世の中にあろうか。無論あるはずがない。下手なものをやれば智識の威厳を損する訳になるばかりだ。彼等は智識[#「智識」に傍点]に対して千両箱をオリムパスの山ほど積み、クリーサスの富を傾《かたむ》け尽《つく》しても相当の報酬を与えんとしたのであるが、いかに考えても到底《とうてい》釣り合うはずがないと云う事を観破《かんぱ》して、それより以来と云うものは奇麗さっぱり何にもやらない事にしてしまった。黄白青銭《こうはくせいせん》が智識の匹敵《ひってき》でない事はこれで十分理解出来るだろう。さてこの原理を服膺《ふくよう》した上で時事問題に臨《のぞ》んで見るがいい。金田某は何だい紙幣《さつ》に眼鼻をつけただけの人間じゃないか、奇警なる語をもって形容するならば彼は一個の活動紙幣《かつどうしへい》に過ぎんのである。活動紙幣の娘なら活動切手くらいなところだろう。翻《ひるがえ》って寒月君は如何《いかん》と見ればどうだ。辱《かたじ》けなくも学問最高の府を第一位に卒業して毫《ごう》も倦怠《けんたい》の念なく長州征伐時代の羽織の紐をぶら下げて、日夜|団栗《どんぐり》のスタビリチーを研究し、それでもなお満足する様子もなく、近々《きんきん》の中ロード・ケルヴィンを圧倒するほどな大論文を発表しようとしつつあるではないか。たまたま吾妻橋《あずまばし》を通り掛って身投げの芸を仕損じた事はあるが、これも熱誠なる青年に有りがちの発作的《ほっさてき》所為《しょい》で毫《ごう》も彼が智識の問屋《とんや》たるに煩《わずら》いを及ぼすほどの出来事ではない。迷亭一流の喩《たとえ》をもって寒月君を評すれば彼は活動図書館である。智識をもって捏《こ》ね上げたる二十八|珊《サンチ》の弾丸である。この弾丸が一たび時機を得て学界に爆発するなら、――もし爆発して見給え――爆発するだろう――」迷亭はここに至って迷亭一流と自称する形容詞が思うように出て来ないので俗に云う竜頭蛇尾《りゅうとうだび》の感に多少ひるんで見えたがたちまち「活動切手などは何千万枚あったって粉《こ》な微塵《みじん》になってしまうさ。それだから寒月には、あんな釣り合わない女性《にょしょう》は駄目だ。僕が不承知だ、百獣の中《うち》でもっとも聡明なる大象と、もっとも貪婪《たんらん》なる小豚と結婚するようなものだ。そうだろう苦沙弥君」と云って退《の》けると、主人はまた黙って菓子皿を叩き出す。鈴木君は少し凹《へこ》んだ気味で
「そんな事も無かろう」と術《じゅつ》なげに答える。さっきまで迷亭の悪口を随分ついた揚句ここで無暗《むやみ》な事を云うと、主人のような無法者はどんな事を素《す》っ破抜《ぱぬ》くか知れない。なるべくここは好《いい》加減に迷亭の鋭鋒をあしらって無事に切り抜けるのが上分別なのである。鈴木君は利口者である。いらざる抵抗は避けらるるだけ避けるのが当世で、無要の口論は封建時代の遺物と心得ている。人生の目的は口舌《こうぜつ》ではない実行にある。自己の思い通りに着々事件が進捗《しんちょく》すれば、それで人生の目的は達せられたのである。苦労と心配と争論とがなくて事件が進捗すれば人生の目的は極楽流《ごくらくりゅう》に達せられるのである。鈴木君は卒業後この極楽主義によって成功し、この極楽主義によって金時計をぶら下げ、この極楽主義で金田夫婦の依頼をうけ、同じくこの極楽主義でまんまと首尾よく苦沙弥君を説き落して当該《とうがい》事件が十中八九まで成就《じょうじゅ》したところへ、迷亭なる常規をもって律すべからざる、普通の人間以外の心理作用を有するかと怪まるる風来坊《ふうらいぼう》が飛び込んで来たので少々その突然なるに面喰《めんくら》っているところである。極楽主義を発明したものは明治の紳士で、極楽主義を実行するものは鈴木藤十郎君で、今この極楽主義で困却しつつあるものもまた鈴木藤十郎君である。
「君は何にも知らんからそうでもなかろう[#「そうでもなかろう」に傍点]などと澄し返って、例になく言葉寡《ことばずく》なに上品に控《ひか》え込むが、せんだってあの鼻の主が来た時の容子《ようす》を見たらいかに実業家|贔負《びいき》の尊公でも辟易《へきえき》するに極《きま》ってるよ、ねえ苦沙弥君、君|大《おおい》に奮闘したじゃないか」
「それでも君より僕の方が評判がいいそうだ」
「アハハハなかなか自信が強い男だ。それでなくてはサヴェジ・チーなんて生徒や教師にからかわれてすまして学校へ出ちゃいられん訳だ。僕も意志は決して人に劣らんつもりだが、そんなに図太くは出来ん敬服の至りだ」
「生徒や教師が少々愚図愚図言ったって何が恐ろしいものか、サントブーヴは古今独歩の評論家であるが巴里《パリ》大学で講義をした時は非常に不評判で、彼は学生の攻撃に応ずるため外出の際必ず匕首《あいくち》を袖《そで》の下に持って防禦《ぼうぎょ》の具となした事がある。ブルヌチェルがやはり巴里の大学でゾラの小説を攻撃した時は……」
「だって君ゃ大学の教師でも何でもないじゃないか。高がリードルの先生でそんな大家を例に引くのは雑魚《ざこ》が鯨《くじら》をもって自《みずか》ら喩《たと》えるようなもんだ、そんな事を云うとなおからかわれるぜ」
「黙っていろ。サントブーヴだって俺だって同じくらいな学者だ」
「大変な見識だな。しかし懐剣をもって歩行《ある》くだけはあぶないから真似《まね》ない方がいいよ。大学の教師が懐剣ならリードルの教師はまあ小刀《こがたな》くらいなところだな。しかしそれにしても刃物は剣呑《けんのん》だから仲見世《なかみせ》へ行っておもちゃの空気銃を買って来て背負《しょ》ってあるくがよかろう。愛嬌《あいきょう》があっていい。ねえ鈴木君」と云うと鈴木君はようやく話が金田事件を離れたのでほっと一息つきながら
「相変らず無邪気で愉快だ。十年振りで始めて君等に逢ったんで何だか窮屈な路次《ろじ》から広い野原へ出たような気持がする。どうも我々仲間の談話は少しも油断がならなくてね。何を云うにも気をおかなくちゃならんから心配で窮屈で実に苦しいよ。話は罪がないのがいいね。そして昔しの書生時代の友達と話すのが一番遠慮がなくっていい。ああ今日は図《はか》らず迷亭君に遇《あ》って愉快だった。僕はちと用事があるからこれで失敬する」と鈴木君が立ち懸《か》けると、迷亭も「僕もいこう、僕はこれから日本橋の演芸《えんげい》矯風会《きょうふうかい》に行かなくっちゃならんから、そこまでいっしょに行こう」「そりゃちょうどいい久し振りでいっしょに散歩しよう」と両君は手を携《たずさ》えて帰る。

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